法金剛院青女滝 附 五位山

―法金剛院青女滝 附 五位山―
ほうこんごういんせいじょのたきつけたりごいさん

京都府京都市
特別名勝 1971年指定


 法金剛院は京都市右京区の花園にある律宗の寺院である。この寺院は平安時代初期に右大臣であった清原夏野(きよはらのなつの)の山荘を起源としており、その際、山荘には珍しい花々が植えられていたことから、その付近一帯のことを花園と呼ぶようになったという。昭和45(1970)年、その法金剛院の境内から平安時代に作られた浄土庭園が発掘され、復元整備がなされた。その庭園の中でも、特に五位山のたもとから発見された青女の滝は、平安時代の浄土庭園の様子を現在に伝える遺構として貴重である。




現在の法金剛院表門

 法金剛院の地に山荘を築いた夏野が死去した後、その山荘は双丘寺(ならびおかでら)という寺院に変えられた。さらにその後の天安2(858)年には、文徳天皇の勅願により大規模な伽藍が整えられ、名も天安寺と改められる。それから一時は衰退してしまったものの、平安末期にあたる大治5(1130)年、崇徳天皇および後白河天皇の母親である待賢門院(たいけんもんいん)により再興がなされ、その際に法金剛院という名となった。青女の滝を含む、昭和に発掘された浄土式庭園が作られたのも、この時のことだ。




花の寺と呼ばれる法金剛院の境内は、蓮や藤などで覆われている

 鎌倉時代に入ると寺は再び衰退してしまうが、鎌倉後期に律宗の総本山である奈良の唐招提寺から円覚上人が法金剛院に入り、この寺を律宗の寺院として復興させた。室町時代の応仁の乱では京都の他の社寺と同じく法金剛院も灰燼に帰したが、江戸時代の初めに再び建て直され、規模は縮小したものの寺はその後も存続していった。しかしながら、近代に突入した明治時代初年、山陰本線の鉄道整備や道路の拡張整備により法金剛院の敷地は大きく削られてしまい、その境内の南半分が失われてしまう。




浄土庭園を復元した法金剛院庭園
ただしこの庭園自体は平安時代そのままの状態ではなく、故に特別名勝ではない

 そのような憂き目に遭ってきた法金剛院ではあったが、昭和45(1970)年に再び日の目を見ることとなる。長きに渡る荒廃によって地中に埋もれていた平安時代の浄土庭園が、庭園研究家の森蘊(もりおさむ)によって発掘されたのだ。その発掘結果に基き浄土庭園の復元整備もなされ、そうして法金剛院は現在見られる姿となった。ただ残念なことに、明治の境内縮小によってかつての庭園跡もかなりの面積が失われてしまっており、今の法金剛院の浄土庭園は平安時代のものそのままの姿ではない。




庭園の奥に組まれている青女の滝
この石組の一角とその背後の五位山のみが、特別名勝に指定されている

 その法金剛院の浄土庭園の中で当時の姿を今に伝える唯一の遺構が、庭園北側に組まれた青女の滝である。発掘時、石組の一部が地表に露出していた為それを掘り下げてみたところ、この滝の石組がまるごと発見されたのだ。青女の滝は待賢門院の発願のもと、立石の名手である仁和寺の僧、林賢(りんけん)が築き、徳大寺の静意が長承2(1133)年に完成させたということが分かっている。平安時代の庭園において発願者および作者がはっきりしており、さらにその遺構が残っているものは他に全く例が無い。




青女の滝から流れた水は遣水を通って池泉へと注ぐ

 巨石をふんだんに用いて組まれた青女の滝は、その高さおよそ4m。現存する平安時代の滝組では最大級のものだ。林賢が築いたもとの大きさはそれほどでもなかったが、それに満足しなかった待賢門院が、後に静意を呼んでこの高さにさせたのだという。法金剛院庭園のかなりの部分が明治時代に失われてしまったのに対し、この青女の滝は平安時代のものをそのまま伝える貴重な滝組であり、そのため法金剛院の浄土式庭園のうち、青女の滝とその背後に広がる五位山のみが、1971年に特別名勝に指定された。

2009年04月訪問




【アクセス】

JR山陰本線「花園駅」より徒歩約5分。

【拝観情報】

拝観料400円、拝観時間は9時〜16時。