―富田林市富田林―
とんだばやししとんだばやし
大阪府富田林市 重要伝統的建造物群保存地区 1997年選定 約12.9ヘクタール 現在はベッドタウンとして住宅地が広がる南河内の富田林市。その中心部である富田林駅南側の一帯には、重厚な町家が驚くべきほどの密度で現存している。そこは戦国時代、一向宗(浄土真宗)の門徒によって築かれたかつての寺内町である。整然と碁盤目状に区画がなされた町割は当初よりほとんど変わっていないといわれ、戦国時代における寺内町の姿を残す町並みとして貴重だ。そこに建ち並ぶ町家は江戸時代中期から明治時代にかけて建てられたものが多く、いずれも規模が大きく質も高い。この富田林寺内町の町並みは、寺内町の景観を良好に残すものとして、また大阪府下に現存する随一の町並みとして、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 富田林は大坂から高野山へ通じる東高野街道、千早峠を越えて大和へ至る千早街道などの各種街道が交わる交通要所の宿場町として栄え、古くより南河内地方の中心地として賑わっていた。そのような中、戦国時代の永禄元年(1558年)に本願寺の門跡寺院である興正寺の第14世証秀(しょうしゅう)が、当時は荒れ果て「富田の芝」と呼ばれていた石川西側の河岸段丘を高屋城主の安見氏より百貫文で購入。周囲の四ヶ村から庄屋八人の協力を得て興正寺別院を建立し、その寺院を中核とした寺内町が形成された。その寺内町は富田林と名付けられ、寺内町創建の功績から年寄役を任された庄屋八人衆による自治のもと、宗教都市として発展していく。 織田信長が室町幕府第15代将軍に就いた足利義昭(あしかがよしあき)を傀儡として天下を治める姿勢を見せると、義昭はこれに怒り反織田信長の勢力に内書を送って信長包囲網を結成。大名に匹敵する権力と財力を有していた本願寺もまたこれに参加し、信長と対立する。各地の一向宗勢力は本願寺に従い信長の軍勢に激しく抵抗したが、富田林は信長に対して恭順の意を示し、町は戦火を免れたのだ。江戸時代に入ると富田林は天領(幕府の直轄領)となり、良好な交通の便を活かして南河内における物資の集散地、いわゆる在郷町として繁栄した。富田林の商家は周辺地域で栽培された綿や菜種油、染物や木材などを取り扱い、また酒造を行い富を蓄えたのだ。 戦国時代に全国各地で築かれた一向宗の寺内町は、その時勢ゆえいずれも自治自衛が目的である。低地の寺内町では周囲に環濠を巡らし、また高所では土居で囲み、それはまさに城塞都市というべき様相を呈していた。富田林では東西約400メートル、南北約350メートルの範囲を南北六筋、東西七町に区画し、その周囲を濠と土塁で囲んで外側には竹を植え、四ヶ所に門を設けて町を守っていた。富田林寺内町の境には現在も土塁が一部現存しており、また南側の斜面には竹やぶが残り、城塞都市としての名残を目にする事ができる。また富田林の目抜き通りである城之門筋は防衛の為に見通しが利かないよう筋違いとなっており、その為「あてまげの道」と呼ばれている。 在郷町として栄えた富田林には数多くの町家が現存しているが、それらの中でも特に目立っているのが寺内町の自治を務めてきた年寄たちの屋敷である。これらはいずれも規模が大きく、江戸時代には一区画をまるまる占めていた家もあったという。富田林の町家は、通りに面した表側には格子がはめられ、また屋根は本瓦葺き、壁は漆喰で塗り込めているなど外観は町家のそれであるが、内部の平面構造は大きな土間に四つの部屋が田の字型に隣接する農家型の「四つ間取り」であり、農村に囲まれた在郷町ならではの特徴を見る事ができる。なお、四部屋のうち表側の二部屋は接客用の「店の間」として用いられ、裏側二部屋は生活の場として使われていた。 富田林寺内町の南西部に位置する杉山家は、寺内町の創設に関わった八人衆の一人として筆頭年寄を務めてきた旧家である。戦国時代から江戸時代中期にかけては木綿問屋を、以降は明治時代中期まで造酒屋を営んでいた。またこの家は、明治末期に与謝野晶子などと共に活躍した明星派の歌人である石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもある。その主家は土間部分が17世紀中期の建立と最も古く、その後は増築を重ねて延享4年(1747年)頃には今に見られる姿になったという。内部は狩野派の障壁画や山水画などで飾り立てられ、また明治時代の螺旋階段なども見られる。町家として極めて古く、大規模で質も高い事から、昭和58年には重要文化財に指定された。 2008年06月訪問
2011年01月再訪問
【アクセス】
近鉄長野線「富田林駅」より徒歩約10分。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・橿原市今井町(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |