―竹原市竹原地区―
たけはらしたけはらちく
広島県竹原市 重要伝統的建造物群保存地区 1982年選定 約5.0ヘクタール 広島県の中南部、瀬戸内に面した港町の竹原は、江戸時代より塩の生産で名を馳せ、莫大な富を築いた製塩業の町である。塩田で濃度の高い塩水を作り、それを煮詰めて塩を取るという、入浜式の製塩法で作られた竹原の塩は、広島藩はもとより、瀬戸内海を利用した航路である北前船の流通によって、遠方にも運ばれていったという。戦後間もなくして流下式塩田法やイオン交換膜法などの近代的な製塩法が開発されると、昔ながらの入浜式塩田は廃れてしまい、竹原での塩の生産は行われなってしまったが、かつてのメインロードである本町通りには、今も江戸時代中期から昭和初期にかけて建てられた立派な町家が軒を連ね、製塩によって栄えていた往時の竹原を今に伝えている。 平安時代、京都は下鴨神社の荘園として開かれた事に竹原の歴史は始まる。鎌倉時代には、小早川氏の祖である小早川遠平(こばやかわとおひら)の次男、小早川茂平(こばやかわしげひら)が、承久3年(1221年)における承久の乱で功を挙げた事により、竹原を含む都宇竹原荘の地頭となった。以降中世を通じ、竹原は小早川氏の統治を受ける事となる。江戸時代に入ると、新田開発の為に本川の右岸が干拓されたが、塩分の多い土壌であるため耕作には適さなかった。そこで広島藩は、製塩が盛んであった赤穂から技術者を招いて塩田を築いたのだが、これが見事成功を収める。竹原は製塩町として一躍脚光を浴び、浜旦那と呼ばれる塩田経営者を中心に、膨大な利を得たのだった。 竹原の町並みは、江戸時代初期に成立した市場町を基礎として、製塩業の隆盛と共に発達していった。塩を積み出す竹原港から、竹原北方の山中を東西に通る西国街道(山陽道)へ至る本通りに沿って、浜旦那の邸宅を始めとする町家が数多く建ち並んだ。重伝建に選定された竹原の町並みは、そのかつての竹原の中心部にあたる、本川沿いの本町通り南北約400メートルの範囲である。主に上市(かみいち)と下市(しもいち)に区分され、それらはさらに、脇道によって細かく分けられている。町並みの東側には、街道に沿って小高い山が立ち、その麓には社寺が並んでいる事から、竹原の町並みは製塩業としての町のみならず、門前町としての機能も持ち合わせていると言える。 緩やかにカーブする本町通り沿いの町並みは、本瓦葺きの屋根が多く、平入の町家と、妻入の町家が混在するのが特徴的だ。その一階部分には、細身の千本格子や、やや太目の格子、道路側にせり出した出格子など、様々な格子がはめられている。これらの格子は一軒一軒意匠の異なった、工夫の見られるものとなっており、総称して竹原格子と呼ばれている。二階部分は軒の低い厨子二階や中二階の造りとなっており、意匠は漆喰によって塗り込められた重厚なもので、虫籠窓などが設けられている。使用されている漆喰も、白漆喰から黒漆喰、うぐいす色など多種多様だ。なまこ壁を持つ蔵なども配されており、なかなかバラエティある町並みとなっている。 そのような竹原の町並みの中でも、やはり塩田経営で財を成した浜旦那の邸宅は、群を抜いて立派なものとなっている。下市地区に建つ松阪家住宅は、江戸時代末期に建てられ、明治12年に改築された商家建築である。塗り込めの重厚な建物ながら、装飾の施された格子や、二階の菱格子窓、「てり・むくり」と呼ばれる曲線を描いた破風など、非常に華やかな印象の町家となっている。同じく下市にある竹鶴家住宅は、三棟並んだ黒漆喰の妻入町家が目を引く酒蔵だ。かつては、製塩業も営んでいたという竹鶴家は、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝の生家でもある。他にも、大並みの中ほどに残る吉井家住宅は、母屋が元禄3年(1690年)頃の建立と、竹原では最古の建造物だ。 製塩によって町人が豊かになった江戸時代後期、竹原では茶の湯などの京文化が移入され、町人文化が華咲いた。また、学問も盛んとなり、竹原からは数多くの学者や文人が輩出された。中でも有名なのが、歴史家で漢詩人でもある頼山陽(らいさんよう)を始めとした頼一門であろう。現在も竹原の上市地区には、頼家発祥の地と言える頼惟清旧宅が残されている。惟清は竹原で紺屋(染色屋)を営む傍ら、春水(しゅんすい)、春風(しゅんぷう)、杏坪(きょうへい)の三人の息子を学者として育て上げた人物だ。頼一門で最も著名な頼山陽は、このうち春水の長男であり、惟清は山陽の祖父にあたる。山陽は竹原にも何度か訪れており、この地に歌を残している。 2010年05月訪問
【アクセス】
JR呉線「竹原駅」より徒歩約20分。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・柳井市古市金屋(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |