有田町有田内山

―有田町有田内山―
ありたちょうありたうちやま

佐賀県西松浦郡有田町
重要伝統的建造物群保存地区 1991年選定 約15.9ヘクタール


 佐賀県西部の山間に位置する有田は、日本で最初に磁器が焼かれた有田焼の里である。磁器の生産は江戸時代初期より始まり、佐賀藩による手厚い保護と厳しい監視のもと、「有田千軒」と称される繁栄を見せた。文政11年(1828年)には大火を被り、ほとんどの家屋が焼失するという憂き目に遭ったものの、佐賀藩の支援により素早い復興がなされたという。有田焼を生産する有田皿山のうち、江戸時代に「上の番所」が置かれていた大イチョウ付近から「下の番所」が置かれていた眼鏡橋まで、東西約2kmに渡る内山地区の皿山通りには江戸時代から昭和初期にかけて建てられた多種多様な商家が建ち並び、特徴ある磁器産業町としての町並みを形成している。




裏通りには磁器工場が置かれ、煉瓦造の煙突が聳える

 日本で磁器が生産されるようになったのは、江戸時代に入ってからのことだ。日本を統一した豊臣秀吉は、次いで朝鮮への出兵を敢行した。その際、佐賀藩主の鍋島直茂(なべしまなおしげ)は朝鮮から大勢の陶工を連れて帰ったのである。そのうちの一人である李参平(りさんぺい)は、和名を金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)といい、元和2年(1616年)に有田の泉山(いずみやま)にて良質の磁石を発見。日本で初めて白磁を焼いた有田焼の陶祖と崇められている。当初は白地に藍一色の絵柄を描いた磁器が生産されていたが、17世紀後半には赤を主調とする柿右衛門様式の磁器が生まれ、17世紀末には金色を交えた金襴手(きんらんで)も生産されるようになる。




番所跡の近くに生える大イチョウ
樹齢約1000年と推定される巨木であり、国の天然記念物に指定されている

 有田皿山で生産された磁器は、佐賀藩が全てを買い上げ独占していた。技術の漏洩を恐れた佐賀藩は町の出入口に番所を設け、人々の出入りと磁器の持ち出しを厳しく監視していたという。17世紀中旬、大陸で明が滅びて清へと移る転換期には中国陶器の輸出が停止し、有田の陶器が注目されることとなる。オランダの東インド会社は有田焼を大量に買い上げ、「IMARI」という名でヨーロッパに輸出した。18世紀に入ると幕府は貿易規制を行い、輸出が再開された景徳鎮との競争もあり、有田焼は国内向けの生産に転換する。江戸時代後期の文化3年(1806年)には瀬戸の加藤民吉(かとうたみきち)が磁器の技術を有田から持ち帰り、以降は日本各地で磁器窯が開かれることとなった。




西洋風の意匠を持つ和洋折衷の異人館
当時としては画期的な螺旋階段を採り入れている

 全国でシェアを減らした有田焼ではあったが、慶応3年(1867年)のパリ万博を始め、幕末から明治初期にかけて各国の万国博覧会に次々と出品された。有田焼は金賞牌など極めて高い評価を受けて再び輸出が盛んとなり、開国後は外国人が有田に買い付けに来るようにもなった。札ノ辻に建つ洋風建築「異人館」は、豪商であった田代紋左衛門の息子、田代助作が外国人商人の宿泊所および接待施設として明治9年(1876年)に建てたものだ。紋左衛門は万延元年(1860年)に佐賀藩より一枚鑑札を取得し、有田焼の輸出を独占していた。また万博への参加は有田焼の近代化をもたらした。有田の人々はヨーロッパの製陶を視察し、その技術や製陶機械を有田に持ち帰ったのである。




通りに面する商家は漆喰の塗り篭めが多く、いずれも大型である

 江戸時代、窯元や赤絵師といった有力な職人、および大商人は苗字帯刀が許されていた。当時、本二階建の町家は町人が武士を見下ろすことになるという理由で一般的には認められていなかったのだが、有田では江戸時代より本二階建の町家が建てられている。明治中期から昭和初期にかけては二階建のみならず三階建ても現れ、町家というよりはもはやビルというべき大型家屋が軒を連ねるようになった。昭和初期の道路拡幅工事により建物の軒切りやそれによるファサードの付け替え、建て替えなど町並みの改変があったものの、皿山通りには和様と洋風の建築が混在する多種多様な意匠を持つ大型家屋が建ち並び、実にバラエティ溢れる町並み景観を目にすることができる。




有田焼の製造販売を手掛ける辻精磁社のトンバイ塀

 窯元の住居や工場が数多く存在する裏路地には「トンバイ塀」と呼ばれる特徴的な煉瓦塀も見られ、磁器の町ならではの風情を醸している。トンバイとは登り窯を築く為に使われる耐火レンガのことであり、その廃材やトモバマ(磁器を焼く際に乗せる台)など使い捨ての窯道具、陶片などを赤土で塗り固めて作った塀である。またかつては白川沿いにシシオドシの原理で陶石を砕く唐臼(有田では“水碓”という字を当てていた)の小屋が置かれ、陶土の精製が行われていた。江戸時代、唐臼の所持は窯元にしか許されず、唐臼への陶石の搬入も水碓通札で監視されていたという。現在、唐臼はすべて失われているが、石垣で整地された川沿いの平場にその名残を見ることができる。

2014年10月訪問




【アクセス】

JR佐世保線「上有田駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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