―名古屋市有松―
なごやしありまつ
愛知県名古屋市緑区 重要伝統的建造物群保存地区 2016年選定 約7.3ヘクタール 徳川家康によって整備され、江戸時代を通じて京と江戸を結ぶ主要街道であった東海道。その宿場町である池鯉鮒(ちりゅう)宿と鳴海(なるみ)宿の間に有松という町場が存在する。手織り木綿に絞り染めを施した「有松絞(ありまつしぼり)」の生産地として知られる染織町であり、店頭で販売されていた手ぬぐいは東海道を行き交う人々の土産物として重宝された。有松には今もなお、往時の幅員を残す旧東海道に沿って、有松絞で財を成した絞商の屋敷や絞り染め職人の町家が建ち並んでいる。有松絞の隆盛から現在に至るまで、有松の特色ある歴史を今に伝える町並み景観を今に残すことから、旧街道沿い約800メートルの範囲が重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 東海道が整備された当時、有松の一帯にはひと気のない荒地が広がっていた。このままでは治安の面で問題が生じることから、尾張藩はこの地への移住を奨励し、慶長13年(1608年)に合宿(あいのしゅく、宿場間の休憩施設)として有松村が開かれた。しかし有松は丘陵地帯に位置するため稲作ができず、また鳴海宿に近いこともあって、農業や商売で生計を立てることが難しかった。そこで移住者の一人である竹田庄九郎(たけだしょうくろう)が考案したのが、三河で栽培が盛んであった木綿を利用した「有松絞」である。当時は名古屋城を築城していた真っ最中であり、その普請のために豊後国から来ていた人々が所持していた絞り染めの手ぬぐいを見て着想を得たという。 有松絞の手ぬぐいや反物は東海道の土産物として広く知れ渡るようになり、有松は尾張藩の庇護を受けつつ染織町として発展していった。創業当初は製造から販売までの全行程を絞商が行っていたのだが、染織技法の発達や需要の増加に伴って18世紀中頃から分業化が進み、絞商の屋敷と職人の町家が混在する町並みが形成された。天明4年(1784年)には大火によって町全体が灰燼に帰したが、藩の援助を受けつつ復興を遂げた。その際には耐火性能が重視され、それまで茅葺きだった屋根を瓦葺きへと変え、壁は木部を露出させずに分厚く塗り篭めた塗籠造りとし、一階の腰部分には瓦を張った海鼠壁(なまこかべ)とするなど、徹底した防火対策を講じている。 有松の絞商は藩から絞り販売の独占権を得て多大な富を築いたものの、明治時代に入ると藩の庇護を失い、また交通の中心が道路から鉄道へと移ったことにより東海道の往来が激減。店頭販売を原則としていた有松絞は衰退を余儀なくされた。しかし明治中期には卸業への転換を図って販路を拡大し、また新しい技法の開発によって再興。生産量はたちまち向上し、明治後期から昭和初期にかけて最盛期を迎えることになる。戦後になると着物離れや安い海外製品との競争にさらされ、また後継者不足も相まって生産量は減少している。しかしそれでも有松には竹田庄九郎の末裔である竹田家をはじめ、中M家、服部家など、現在も絞り商を営む店は少なくない。 有松における町並みの特徴は、絞問屋の壮大な屋敷構えである。いずれも敷地の間口が極めて広く、東海道の宿場町と比較するとゆったりと家屋が連なるのが印象的だ。旧街道に面して主屋や土蔵を並べ、さらには門や板塀を建てている。塀越しには庭木が見え、また敷地の奥に置かれた蔵や作業場、隠居屋などの附属屋も覗いている。主屋は基本的に切妻屋根平入りの中二階建てとし、半間にせり出した土庇を設けている。一階部分には格子をはめ、二階には虫籠窓(むしこまど)が開いている。平面は東側にトオリニワ(通り土間)を設け、西側に三室の部屋が三列に並んでいる。また職人の町家の場合には二列型を基本とし、間口の狭いものでは一列型の家も見られる。 「大井桁屋」と称される服部家は、竹田庄九郎の末裔である竹田家と並んで代表的な絞問屋の家系である。主屋は明治8年(1875年)に建てられた厨子二階建てで、戦後は医師である棚橋家の住宅となった。寛政2年(1790年)に大井桁屋から分家した服部家は屋号を「井桁屋」とし、文久元年(1861年)建造の主屋は黒漆喰の塗籠造りで屋根の量端には立派な卯建を上げる。主屋の西に建つ座敷は明治30年(1877年)頃に尾州久田流茶道の開祖である西行庵下村實栗(しもむらみつよし)の指導のもと築かれた数寄屋風書院である。敷地の裏手には各種の蔵が並んでおり、白漆喰の塗籠造りに格子をはめ、下部を下見板張りとする外観は、さながら城郭の櫓のようなたたずまいである。 2016年05月訪問
【アクセス】
名古屋鉄道名古屋本線「有松駅」より徒歩約1分。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 Tweet |