喜多方市小田付

―喜多方市小田付―
きたかたしおだづき

福島県喜多方市
重要伝統的建造物群保存地区 2018年選定 約15.5ヘクタール


 福島県の北西部に広がる会津盆地。四方を山々によって取り囲まれている土地であることから伏流水に富んでおり、数多くの河川が流入して複合扇状地を形成している。その北部を北から南へ流れる田付川(たづきがわ)の東岸に位置する小田付は、西岸の小荒井と共に喜多方市の中心市街地を成す町場である。中世末期の町割と市立(いちだて)にルーツを持つ小田付は、隣接する小荒井と切磋琢磨しつつ、会津盆地北部の中心的な在郷町として近世から近代にかけて繁栄した。その通りに沿って今もなお重厚な蔵造の商家建築やその付属蔵が数多く現存しており、かつての町域にあたる東西約500m、南北約900mの範囲が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。




小田付の郷社である出雲神社
年頭に開催される初市の会場であり、市神が祀られている

 小田付の名が初めて史料に登場するのは室町時代。当時会津地方を支配していた蘆名盛高(あしなもりたか)による永正6年(1509年)の寄進状に、小田付村の在家を示現寺に永代寄進するという旨が記されているという。町場としての歴史は天正10年(1582年)、蘆名氏の重鎮であった佐瀬種常(さぜたねつね)が小田付村に居館を置いて町割を行い、近隣の村から定期市を移したことに始まると伝わっている。その後、蘆名氏は後継者争いや家臣の権力闘争によって衰退し、天正17年(1589年)に伊達政宗との戦いで大敗を喫し滅亡。その後は領主が度々変わり、最終的には寛永20年(1643年)に会津へと入った保科氏(後に松平氏に改姓)が幕末まで会津藩主を務めることとなった。




出雲神社の前に連なる町家
現在も様々な業種の店舗として利用されている

 会津国は米の生産力が低かったことから、天正18年(1590年)から元禄2年(1689年)の約100年間、年貢の半分を米、残りの半分を貨幣で納めるという「半石半永法」による税制が定められていた。そこで農産物の換金ができるよう、領主は主要な集落で定期市を開催し、商品作物の流通を促していた。小田付村においても小荒井村と日をずらして市が開催され、また豊富な伏流水を利用して酒造や味噌・醤油などの醸造業も早くから行われてきた。やがて有力商人による常設的な商売や農民による市場外の直商いが増えて定期市は衰退したが、小田付村は周辺地域の物資が集散する在郷町として発展し続け、江戸時代中期から後期にかけて商家が建ち並ぶ町並みが形成された。




多種多様な土蔵が建ち並ぶ小田付の町並み

 会津藩は佐幕派であったことから、明治元年(1868年)の戊辰戦争において新政府軍の攻撃対象となった。小田付村もまた甚大な被害を受けたものの、以前の地割を踏襲しつつ早期の復興を遂げている。明治17年(1884年)には福島県令であった三島通庸(みしまみちつね)の主導によって会津三方道路が小田付に通され、また明治37年(1904年)には郡山と新潟を結ぶ岩越鉄道が開通して販路が拡大し、以降、小田付は大正時代にかけて最盛期を迎えることとなる。商店の経営拡大に伴い敷地が統合され、間口の広い店舗が建てられるようになった。戦後には幹線道路がバイパス化されたこともあり、小田付は昔ながらの町並みを留めながらも、喜多方市街地中心部としての位置付けを保ち続けてきた。




重厚な蔵造の商家建築が数多く残る

 小田付の町並みは佐牟乃(さむの)神社を北端とし、南へ伸びる表通りの両端に短冊状の敷地が連なっている。明治4年(1871年)頃に描かれた「岩代国耶麻郡小田付村絵図」と比べてみても、表通り中央の水路が埋められている等の若干の変更はあるものの、おおむね絵図と一致している。各家の奥行きは30間から40間で、その中央部分に中堀と呼ばれる水路を南北に通しているのが特徴的だ。通りに面して店を建て、その奥に主屋や蔵座敷を並べ、中堀より後方に付属屋や業務施設を配している。店の規模は桁行四間から七間、梁間は三間から四間で、二階建ての切妻造平入を基本とする。壁は木部を塗り籠める土蔵造であり、正面には半間から一間ほどの下屋を設けるものが多い。




小田付に残る江戸時代末期の井上合名会社店舗蔵(右)
大正時代の座敷蔵(左)、昭和初期の醸造蔵と共に国登録有形文化財

 店のうち土蔵造のものは店蔵と呼ばれ、天井と屋根の間に空間がある置き屋根形式のものが多い。屋根は赤い瓦の桟瓦葺き、もしくは鉄板葺きである。一階を店舗、二階を物置や座敷とし、一階の下屋部分は土間であり、本体部分には床を張って帳場としていた。土間と帳場の間には、仕切りの摺上戸を入れるのが本来の様式である。店南側の戸外には主屋への入口を設けるのが一般的であり、門を構える家も存在する。戊辰戦争の影響から小田付に現存する建物の多くは明治以降の建造であるが、井上合名会社店舗蔵など江戸時代末期の建築も一部残っている。店蔵以外にも、蔵座敷、家財蔵、穀蔵、醸造蔵など、用途や規模の異なる多種多様な土蔵が群として残っているのが小田付の特徴だ。

2008年04月訪問
2015年05月再訪問




【アクセス】

JR磐越西線「喜多方駅」から徒歩約30分。
駅前にレンタサイクルあり。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。