若桜町若桜

―若桜町若桜―
わかさちょうわかさ

鳥取県八頭郡若桜町
重要伝統的建造物群保存地区 2021年選定 約9.5ヘクタール


 鳥取県の南東部を流れる八東川(はっとうがわ)の上流域に位置する若桜町は、交通の要衝に築かれた山城である鬼ヶ城(おにがじょう)の城下町を起源とし、江戸時代には鳥取城下へと通じる若桜街道の宿場町として発展した。明治維新後も街道上の商家町として栄えていたが、二度の大火によって町のほぼ全域が焼失するという憂き目に遭う。その復興に際しては防火を強く意識した町作りがなされ、現在も若桜には大火直後から昭和30年(1955年)頃までに築かれた町家が多く残っており、大火を経て復興を遂げた商家町としての歴史的風致を今に伝えていることから、本通り沿いの延長約910メートル、幅約250メートルの範囲が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。




鬼ヶ城の三の丸から眺めた若桜の町場

 古代における若桜の様相は詳らかではないが、鎌倉時代には国人の矢部氏が鬼ヶ城(おにがじょう)を築いて居城としていた。戦国時代になると、若桜は播磨および但馬へと通じる街道の結節点に位置することから度々戦乱が起き、天正3年(1575年)には尼子氏の家臣であった山中幸盛(やまなかゆきもり)の策略により矢部氏は滅亡する。天正9年(1581年)には木下重堅(きのしたしげかた)、慶長5年(1600年)には山崎家盛(やまざきいえもり)が城主となり、この両者の時代に鬼ヶ城は石垣を備えた織豊系城郭に改修され、同時に城下町が整備された。元和3年(1617年)の一国一城令により鬼ヶ城は廃城となったものの、以降は宿場町として機能するようになり近世を通じて賑わった。




直線的な本通りに沿って若桜の町並みが続く

 明治時代に入ってからも若桜は物資が集散する商家町として栄えたが、明治7年(1874年)および明治18年(1885年)の大火によって町のほぼ全域が焼失してしまう。この二度に渡る大火を受けて、住民の自主運営組織である「若桜宿外七ヶ村連合会」は防火対策を盛り込んだ復興計画を決議。それまで藁葺であった屋根の素材を杉皮、瓦、板とし、本通りに直交する横路地を設け、本通り沿いの家屋は敷地境から下げて建てる、家屋の正面には幅四尺の庇と幅二尺の用水を設ける、敷地の背面は土蔵とするなど、火災に強い町を作るためのルールが定められた。この決議を基に町の復興は進められ、明治23年(1890年)までには本通りが直線化されるなど、今に通じる町並みが整備された。




「カリヤ」と呼ばれる庇を付けた町家
その前には「カワ」と呼ばれる用水が流れる

 若桜の町並みは、東側から「山田町」「上町」「中町」「下町」「西町」および山田町北側の「新町」と西町南側の「農人町」の計七町から構成されている。本通りに沿って一階の正面に「カリヤ」と呼ばれる吹放しの差掛け庇を付けた伝統的な町家が多く残っており、広々とした軒下空間を作っている。本通りの両端と敷地の背面沿いには八東川から取水した「カワ」と呼ばれる用水路が流れており、このカワから分岐した「スイロ」を敷地内へと引き込み、通り土間と裏庭を経由して背面のカワへと排出している。またカリヤの内側にはカワで水汲みや作業をするための段差である「イトバ」や、食用の鯉を飼うための貯水槽である「ホリ」が現存する家も残っている。




裏町通りに建ち並ぶ土蔵群

 各家の間口は三間程度と比較的小規模であるが、中町には六間を超える規模の大きな家も存在する。間口いっぱいに主屋を建て、中庭を隔てて敷地の背後に土蔵を配している。奥行きは本通り沿いの町では20間程度であるが、農人町などでは一定でない。主屋は二階建てを基本とし、屋根は瓦葺あるいは鉄板葺で切妻造の平入。一階の床上部に出格子を構えるものもある。平面は東側に通り土間を配し、手前から奥へ「ミセ」もしくは「ゲンカン」、「ナカノマ」、「オク」を並べる一列三室が基本であるが、間口の広いものは二列三室の六間取りとする。ミセやゲンカンは低い根太天井、ナカノマは吹き抜けとし、オクは床(トコ)を設えた座敷で竿縁天井とするのが昔ながらの形式である。




裏町通りの北側に並ぶ四つの寺院のうち、最も広い境内を持つ西芳寺

 裏町通りなど背後の路地に面して並ぶ土蔵は、瓦葺屋根で切妻造の妻入である。壁は漆喰で塗り篭め、腰部分は下見板張りや竪板張りとし、海鼠壁(なまこかべ)や鏝絵(こてえ)の装飾を施しているものもある。また裏町通りの北側には寺院が並んでおり、東から寿覚院、西芳寺、正栄寺、蓮教寺と四箇寺が続いている。中でも西芳寺は若桜を代表する古刹であり、本堂の裏手に広がる庭園(非公開)は池泉を中心に築山や植生を配しており、東に聳える山々を借景とするなど趣向を凝らしているという。大火で焼失する前の姿を偲んで明治20年(1887年)に描かせた「不遠山西方精舎表裏眺望真景之図」と比較しても大きな差はなく、優れた芸術的・歴史的価値を持つと評価されている。

2021年08月訪問




【アクセス】

・若桜鉄道「若桜駅」から徒歩約1分。

【拝観情報】

・町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【参考文献】

・「月刊文化財」令和3年8月(695号)
「若桜町若桜伝統的建造物群保存地区保存活用計画」を策定しました|若桜町
若桜町若桜|国指定文化財等データベース