遊子水荷浦の段畑

―遊子水荷浦の段畑―
ゆすみずがうらのだんばた

愛媛県宇和島市
重要文化的景観 2007年選定


 四国の西端部、宇和海へと突き出た三浦半島。その北岸よりさらに伸び出る蒋淵(こもぶち)半島の中端部に、水荷浦(みずがうら)集落はある。この付近一帯は遊子(ゆす)と呼ばれ、急傾斜の険しい地形と深い海に囲まれた、リアス式海岸の特徴を持つ地域である。それゆえ平地部は極端に少なく、人々は傾斜部を耕作地として利用する為、段畑(だんばた)と呼ばれる雛壇状の耕作地を作り出し、半漁半農の生活を続けてきた。その遊子の中でも、特に水荷浦集落には非常に良い状態で段畑が残り、そこでは今もなお、山の裾から山頂に渡って段畑が広がる、まさしく「耕して天に至る」と言うに相応しい壮観を望むことができる。




宇和海を臨む、春の水荷浦

 遊子は極めて農業に厳しい土地柄である。平地が少ないのはもちろんの事、年間を通じて雨があまり降らず、冬になると強い季節風が西から吹き付けてくる。砂岩と頁岩から成る土質は乾燥していて酸性度が高く、決して肥沃とは言い難い。ゆえに、村の産業はあくまで漁業が中心であり、集落の発展もまた漁業によるものであった。慶長19年(1614年)に宇和島藩の藩主となった伊達秀宗(だてひでむね)は、元来宇和海で盛んであった鰯漁をさらに振興すべく漁業の推奨を行った。その漁業を支えるため、遊子の人々は山に石垣を積んでわずかな平地を作り出し、そこで自給の為の作物を育て始めたのだ。それが、遊子における段畑の始まりである。




等高線に沿って湾曲する石垣が美しい

 江戸時代中頃になると鰯の不漁が続き、人々は食料を農作物に頼らねばならなくなった。それまであった小規模な畑にさらなる石垣が積まれ、それは本格的な段畑へと変貌を遂げる。江戸時代末期には再び鰯が捕れるようになったものの、それに伴い人口が劇的に増加。増えた人口に対処すべく、段畑の開発がさらに進み、明治時代に入る頃には山の裾から山頂まで、辺り一面が段畑によって覆われていたという。明治中頃になると、日本の国策として養蚕が推し進められ、遊子の段畑でも蚕の餌となる桑の木が栽培されるようになった。また、第二次世界大戦後には、食料不足を打破すべく再びサツマイモやジャガイモが植えられるようになり、遊子の段畑は最盛期を迎える事になる。




段畑を登る為の石段とハシゴ

 しかし耕作地が増えたとは言え、段畑は通常の畑と比べて生産性が低く、またその農作業も想像を絶するほどの重労働であった。人々は藁草履を履き、細い農道や石垣に設けられた石段を通って上段へと登って行く。そして収穫したイモを天秤に載せ、肩を軋ませながら段畑を下る。それを一日に何往復もこなしていたのだという。戦後には作物がイモから柑橘類へと変えられ、農道などの整備も徐々に行われていったものの、昭和40年頃からはタイやハマチ、真珠を生むアコヤガイなどの養殖が盛んとなり、重労働の割に実入りが少ない段畑は次第に放棄され、遊子の段畑はその姿を次々に消して行ってしまう。




石垣の手入れをするおじいさん

 その結果、ピーク時には9.7ヘクタールあった昔ながらの段畑は、1995年には1.6ヘクタールにまで減少し、かつては遊子中の山を覆っていた段畑の風景も、大規模なものは水荷浦集落のもののみとなってしまった。しかし近年、段畑の文化的価値を見直す動きが活発化し、2000年には地域の住民を中心として「段畑を守ろう会」が発足。その努力の甲斐あって、人々が多大なる労力を持って険しい地形の中に築き上げた水荷浦の段畑は、後世に残すべき貴重な景観であるとして2007年に重要文化的景観に選定され、保護される運びとなった。荒れた段畑の修復も行われ、現在はおよそ4.0ヘクタールの段畑に作付けが行われている。




巨大な城塞のごときたたずまいを見せる

 改めて段畑を見上げると、その石垣の迫力に圧倒される。平均勾配が40度にもなる山の斜面に、等高線に沿って積まれたその石垣は、非常に堅固で巧な作りである。石垣の高さは平均して1m以上にもなるが、それによって作り出される耕作地は極めて狭隘で、狭いところになると40cmほどの幅しかない。また、段畑を歩いていると、要所要所に縦に通る溝が設けられているのが分かる。これは排水のための溝であり、また段畑を登る際の通路としても用いられていたという。今でこそ農業用のモノレールが通っているものの、かつてはこの足がすくむほどに急な段畑を徒歩で登り、農作業を行っていた事を考えると、その甚大な苦労は想像に難くない。

2010年03月訪問




【アクセス】

JR予讃線「宇和島駅」より 宇和島バス「蒋渕」行きで約60分、「水ケ浦」バス停下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。