―久礼の港と漁師町の景観―
くれのみなととりょうしまちのけいかん
高知県高岡郡中土佐町 重要文化的景観 2011年選定 高知県の土佐市から足摺岬にかけての海岸線は、険しい地形が複雑に入り組んだリアス式海岸である。久礼は、そのリアス式海岸に形成された入江の一つ、久礼湾の奥に広がる港町だ。古くは久礼湾へと流れ込む久礼川や長沢川の水運を利用して、四万十川流域を始めとする内陸部の村々から送られてきた木材など物資の集散港として発展し、また鉄道などの陸上交通が発達した近代以降は漁港として栄え、今ではカツオの一本釣りでその名を馳せている。そのような久礼では、港を核として展開される特徴ある漁師町の姿を見る事ができる事から、町の中心部を始めとし、久礼湾やその沿岸部を含めた約244ヘクタールの範囲が、2011年重要文化的景観に選定された。 現在に通じる久礼の町の形成は、常陸国の佐竹氏が久礼に移り、そこに拠点を置いた南北朝時代にまで遡る。久礼湾を一望できる山の上に久礼城を築いた佐竹氏は、その山下から海岸にかけて城下町を開いた。川の水運、港からの廻船、加えて久礼は高知から土佐中村へと至る中村街道の中継地でもあり、佐竹氏はそれらを押さえる事で力を有し、北は安和、南は上ノ加江までの一帯を支配した。しかし江戸時代に入ると、佐竹氏は長曽我部氏と共に没落。以降は窪川山内氏によって治められる事になる。なお、18世紀の後半になると、川から流れ込んだ土砂が久礼港に堆積し、廻船の港としては利用できなくなってしまった。廻船業で暮らしていた人々は、漁業へ転向している。 歴史のある町らしく、久礼には古い建物が数多い。それらはおおむね切妻屋根の平入で、二階建て。二階部分には虫籠窓を開いていた商家建築の家が多い。また、土佐は台風による暴風にさらされやすい地域である為、壁には水に強い土佐漆喰を厚く塗り、また建物の側面に雨風から建物を守る水切り瓦を備えるなど、風土に根ざした工夫を随所に見る事ができる。また旧中村街道沿いには、久礼唯一の造り酒屋である西岡酒造があるが、そこには創業当時より220年間使用されてきたという、高知県下最古の酒蔵が現存している。また町の南側には、山間部から輸送してきた炭を貯蔵していたという倉庫群も残されており、久礼港から海運で炭を運んだその歴史を物語っている。 久礼の中心部に位置する大正町には、大正町市場がある。午前2時に港を出た漁船は、黒潮の漁場へと出て魚を獲り、昼頃に久礼へと帰港する。その日の漁で獲れた新鮮な魚が並ぶのが、この大正町市場だ。大正町市場のルーツは明治時代の中期。漁師のおかみさんたちが、ご主人の獲ってきた小魚を売るようになったのが始まりであるという。元は地蔵町通りと呼ばれていたが、大正4年に周囲一帯が焼失する大火に見舞われてしまい、その際に大正天皇より復興費用350円を賜った事から、大正町へと改めたのだという。現在、大正町市場では店先で魚をさばく漁師町ならではの風景が見られ、またその場で新鮮な魚を味わう事もできる事から、地元の人々や観光客で賑わっている。 大正町の近くには、久礼八幡宮の社殿が鎮座している。宝永4年(1707年)に起こった宝永地震の津波によって神社の記録が全て失われてしまった為、その縁起は定かではないものの、明徳3年(1392年)の銘を持つ鰐口が現存している事から、少なくともそれ以前に創建された、歴史のある神社である事が分かる。毎年旧暦の8月14日から15日にかけて、大祭である御神穀祭(おみこくさん)が執り行われる。この御神穀祭では長さ5メートル、およそ1トンもの大松明と、長さ2メートル程の小松明12本に火を灯し、その後ろでは太鼓をぶつけ合いながら打ち鳴らし、夜を徹して松明を久礼八幡宮に運ぶというもので、土佐の三大祭の一つにも数えられている。 また久礼湾の入口には、双名島(ふたなじま)と呼ばれる二つの小島が浮かんでいる。この二つの島については、大波に苦労していた久礼の人々を救う為、鬼ヶ島の鬼が二つの岩を運び、防波堤として久礼湾の入口に置いた。しかしその直後、連れて来た小鬼が足を滑らして海に落ちてしまい、鬼は最後の力を振り絞って溺れる小鬼を救い、代わりに自分は海の底へと沈んでしまったという伝説が残されている。二つの島のうち陸側は観音島、海側は弁天島と言う名で呼ばれており、その名の通り、観音島には観音菩薩を祀るお堂が、弁財島には灯台と弁財天を祀る社が鎮座している。今でも久礼の人々は、漁に出る際に参拝し、航海の安全と大漁を祈願するという。 2011年05月訪問
【アクセス】
JR土讃線「土佐久礼駅」より徒歩約10分。 【拝観情報】
散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・四万十川流域の文化的景観 上流域の農山村と流通・往来(重文景) Tweet |