―東草野の山村景観―
ひがしくさののさんそんけいかん
滋賀県米原市 重要文化的景観 2014年選定 滋賀県の北東部、伊吹山地の西麓を南北に流れる姉川の上流域一帯は東草野と称され、谷筋に沿って南から吉槻(よしつき)、甲賀(こうか)、曲谷(まがたに)、甲津原(こうづはら)の四集落が点在する山村地帯である。周囲を山々に取り囲まれた閉鎖的な土地ではあるものの、数多くの峠道が古くより拓かれ、周辺地域との交流も盛んであった。また冬季には積雪が2メートルから3メートルにもなる西日本屈指の豪雪地帯でもあり、各集落では大雪に適応した様々な工夫を見ることができる。東草野の主要産業は農業であるが、雪に閉ざされる冬季には各集落ごとに特色のある副業が営まれ、それぞれ独自の集落景観を作り出してきた。 東草野の村々は、姉川下流の地域よりもむしろ峠道を越えた東西地域との関わりの方が深かった。吉槻から旧浅井町の鍛冶屋町へ至る七曲峠は、集落内で生産した農作物や炭を売りに行く重要な峠道であり、東の美濃美束へ抜ける国見峠と共に、近江と美濃を繋ぐ物流の道として機能していた。また東草野の最奥に位置する甲津原からは新穂(しんぽ)峠、品又峠、鳥越峠の三本の峠道が通っており、旧坂内村の諸家(もろか)、広瀬、坂本との往来があった。この峠道を介した繋がりは、浄土真宗の風習である「廻り仏」にも表れている。信仰対象の御影を地域内で循環して法要を営む「廻り仏」は、東草野では甲津原の行徳寺から旧坂内村の寺院を廻り、吉槻の光泉寺へと戻ってくる。 東草野の民家は、その多くが雪の吹きつける北を背にし、玄関を南に向けて建てられている。また積雪時にも作業ができるスペースを確保すべく、「カイダレ」と呼ばれる長い庇を設けているのも特徴的だ。カイダレを支える持送りには彫刻も施されており、東草野における民家の様式を特徴付けている。その深い軒は冬季以外にも活用され、天日干ししていた農作物を急な雨から避難させるための場所などとして重宝されているという。また集落内には「カワ」「サワ」「ユカワ」などと呼ばれる水路が張り巡らされ、各家の敷地内にはその水を引きこんで貯水する「イケ」や、水路を堰き止めた「カワト」と呼ばれる洗い場も設けられており、それらの水は融雪にも利用されている。 東草野の南端に位置する吉槻は、東西の峠道および南北の姉川沿いの往来が交差する交通の要衝であり、物流の中継点として商店や公共施設が並んでいた。東草野における行政・商業の中心地を担ってきた集落である。吉槻の集落内には、石仏や五輪塔といった石造物が数多く残されている。そのほとんどが墓標として作られたものと考えられており、かつては集落端の墓地にあったものが時代の流れと共に移動・集約され、集落内で祀られるようになったと推測される。墓標の多さは人の多さの指標でもあり、これら吉槻の石造物は、中世末から近世にかけて数多くの人で賑わっていたことを物語る。また峠道には地蔵尊が祀られ、往来の安全を祈願した人々の思いが見て取れる。 各集落の副業による特産物は、甲津原が麻織物、曲谷は石臼、甲賀は竹刀と、集落によって様々である。その中でも良質な花崗岩が採れる曲谷では古くより石工が盛んであり、数多くの石棺や石塔を作ってきた。その集落の起こりは平安時代末期の保元年間(1156〜1158年)、平清盛の追討から逃れた信救得業(しんきゅうとくごう)がこの地に落ち延び、故郷である木曽から石工を招いたと伝わる。江戸時代以降は石臼の生産が主となり、石臼の里として知られるようになった。曲谷の集落内では巨石を利用した豪快な石垣や、石材を割るための矢穴が残るなど、石工の村らしい集落景観を目にすることができる。また集落の北東に位置する五色の滝には、かつての石切り場跡も現存する。 甲津原もまた平家の落人伝説が語られる集落である。甲津原の墓地は墓石のない無墓制であり、これは平氏が墓石に名を刻むことを拒否したからとされる。また墓地のある高台が集落の家並みを隠し、姉川の対岸にそびえる治山(じやま)が砦の役目を果たしていたともいう。しかし、浄土真宗の集落には無墓制の墓地も多く、また峠道による往来も多いことから、伝説の真偽は不明だ。甲津原集落の入口近くには、江戸後期に建てられた竹中家旧宅が残る。茅葺家屋が密集する甲津原では度々の大火に見舞われたが、竹中家旧宅は天保7年(1836年)の大火を逃れた貴重な民家である。内部の設えも立派であり、ツヤのある板張りのダイドコロ(広間)では能が演じられていたという。 2014年05月訪問
【アクセス】
JR東海道本線「近江長岡駅」より湖国バス「曲谷・甲津原行き」で約60分、「甲津原バス停」下車すぐ(バスの本数が少ないので要時刻表確認)。 【拝観情報】
散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 Tweet |