三角浦の文化的景観

―三角浦の文化的景観―
みすみうらのぶんかてきけいかん
重要文化的景観 2015年選定

熊本県宇城市


 有明海と八代海を分かつ宇土半島の先端部に位置し、対岸に大矢野島を望む三角浦。その海峡「三角ノ瀬戸」は水深が深く、波も穏やかで暴風や波浪の影響を受けにくいことから港に適しているとされた。明治20年(1887年)には明治政府の国保補助事業として三角西港が築かれ、これは宮城県の野蒜(のびる)港、福井県の三国港と並ぶ日本最初期の本格的な近代港湾である。港としての機能はその後に整備された東港へと移り、西港は衰退するものの、それが逆に幸いして大きく改変されることなく現在まで受け継がれ、明治期の姿がほぼ完全に残る唯一の港として貴重である。その美しい石積の埠頭は風光明媚な海岸風景と相まって、港湾都市らしい風致景観を作り出している。




小泉八雲(こいずみやくも)が「夏の日の夢」の舞台とした旅館「浦島屋」
明治38年に解体され中国の大連に運ばれたが、設計図を元に復元された

 三角ノ瀬戸は古くより良港として知られており、八代海と島原湾を結ぶ南北の水運、および九州内陸部と天草諸島を結ぶ東西の水運が交差する、往来と流通の結束点として極めて重要な位置にあった。また三角ノ瀬戸は変化に富んだ複雑な海岸地形を有することから景勝地としても名を馳せ、戦国時代には島津氏家老の上井覚兼(うわいさとかね)が和歌を詠み、明治時代には小泉八雲や与謝野鉄幹(よさのてっかん)などの文人墨客が小説や紀行文などで三角浦の情景に触れている。また熊本を本拠地とする大日本帝国陸軍第六師団の保養地にも指定され、現在も数多くの別荘が建っているなど、三角浦は保養都市としても人々に親しまれてきた。




三角西港はその全体が国の重要文化財に指定されている

 明治維新を迎えた新政府の最優先事項は日本の近代化であった。富国強兵をスローガンに掲げ、技術と設備を導入し、また多くの外国人技術者を雇い、殖産興業を推し進めた。明治13年(1880年)、熊本県では三池炭鉱で産出される石炭搬出のための大規模な港が必要となり、坪井川の河口に位置する百貫石港の改修を国に要望。政府はオランダ人の水利工師ローウェンホルスト・ムルデルを熊本へと派遣し、港の調査にあたらせた。ムルデルは百貫石港では遠浅で船舶の出入りに必要な水深を確保できないと報告し、代案として三角浦を提案したのである。三角港の建造は明治17年(1884年)の5月に始まり、明治20年の8月15日に開港。約10年に渡り拠点港として栄えることになった。




港町を囲むように通されている排水路

 三角西港はムルデルの設計のもと、長崎の大浦天主堂やグラバー邸の建設にも携わった小山秀(こやまひで)が率いる天草の石工集団が施工にあたったとされる。背後の山を切り拓いて海を埋め立て、石積で築港を築き上げた。使用する石材は対岸にそびえる大矢野島の飛岳(ひだけ)や天草から切り出して運び、「三角町史」によると総勢13万人もの人々が工事に携わったとされる。海岸線に対して平行に築かれた埠頭は延長756メートルにおよび、埠頭の東西端および中央の二箇所に荷揚げのための階段が備えられ、またエプロンには船を繋留するための係船柱が設けられている。また東西の二箇所と背後の山裾に沿って排水路が巡らされており、山からの湧水を処理している。




4隻の汽船を所有していたという旧高田回漕店(国登録有形文化財)

 三角西港最大の特徴は、近代的な港湾と都市を一体的に整備したところにある。港湾施設の築造と並行して市街地が整備されたのだ。道路や水路を整然と配して区画し、それぞれ商業地区、司法行政地区などに分けられた。その町の設計は現在にも通じるものであり、三角西港を通る国道57号線は開港当時の幅員のまま拡幅されていないという。かつては海に面した港沿いに海運倉庫が建ち並び、その裏手に乗客を扱う廻船問屋や旅館などが軒を連ねていた。限られた土地を有効活用するべく、表通りの建物は必ず二階建てにするよう定められていたという。また三角港で店を開くには相応の財産もしくは業績が必要であり、商売を行えたのは限られた者たちだけであった。




かつては港町の中心にあった旧三角簡易裁判所(国登録有形文化財)

 現在、三角西港は公園として整備され、活用されている。港を見下ろす高台には旧宇土郡役所と旧三角簡易裁判所が建っているが、これらはかつて中町に並んで置かれ、町の中心的役割を担っていた。明治28年(1895年)に建てられた旧宇土郡役所は、モルタル塗りの外壁に目地を切り、石造風に見せた洋風建築である。一方、明治23年(1890年)に建てられた旧三角簡易裁判所は、漆喰塗りの和風建築だ。他にも三角西港には大正7年(1918年)に明治天皇即位50周年を記念して建てられた龍驤館(りゅうじょうかん)や、開港と同じ明治20年に建てられた旧三角海運倉庫などが現存しており、また平成4年(1992年)には小泉八雲が紀行文の舞台とした浦島屋が復元されている。

2014年10月訪問




【アクセス】

JR三角線「三角駅」より九州産交バス「宇土駅行き」で約10分「三角西港前バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。