―奥飛鳥の文化的景観―
おくあすかのぶんかてきけいかん
奈良県高市郡明日香村 重要文化的景観 2011年選定 飛鳥時代に大和朝廷の宮都が置かれていた奈良県明日香村。その中心部を流れる飛鳥川の上流域には草木生い茂る山林が広がっており、狭隘な土地を巧みに利用した集落や田畑が連なっている。現在は「奥飛鳥」と称されるこれらの地域については奈良時代に編纂された歴史書『日本書紀』や和歌集『万葉集』にも記述が見られ、中世末期には「稲渕(いなぶち)」「栢森(かやのもり)」「入谷(にゅうだに)」「畑(はた)」の四集落が成立したとされる。いずれの集落も飛鳥川沿いの河岸段丘や山裾、山の斜面を切り開き、出土した石材や川石を積んで家屋を建てる平場を形成しており、物理的にも精神的にも飛鳥川と深く結びついた、奥飛鳥ならではの集落と生業の在り方を今に伝えている。 奥飛鳥の入口にあたる稲渕地区では、飛鳥川の流れが作り出した高低差50mの傾斜地に300枚以上もの棚田が広がっている。この「稲渕の棚田」の歴史は中世にまで遡り、石垣を用いつつも高さに応じて上部を土坡(どは)とするなど、この地域ならではの伝統的な工法で築かれているのが特徴だ。棚田で使用している水はすべて飛鳥川の上流に築いた堰から引き入れており、15世紀に開削された「井出(いで)」と称される水路を用いて導水している。中でも「八幡だぶ」と呼ばれる淵から取水している「大井出」は全長3.8kmにも及ぶ長大なもので、現在もこの大井出をはじめ数十本もの井出が張り巡らされており、奥飛鳥の人々によって管理されている。 稲渕の棚田を抜けると谷の幅が狭まり、その先の河岸段丘上には「稲渕集落」が存在する。集落内を流れる飛鳥川には、地元で産出された石英閃緑岩が飛び石状に並べられており、増水時にも流されない石橋として利用されている。『万葉集』にも「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」という歌が詠まれており、飛鳥時代よりこのような石橋が飛鳥川に存在したと考えられている。また集落の入口には男根を象った「男綱(おづな)」と呼ばれる綱が掛けられており、毎年一月に飛鳥坐神社の神主が御祓いを行っている。これは子孫繁栄と五穀豊穣を祈願すると共に、悪疫などが飛鳥川を通って集落へ侵入することを防ぐための結界である。 一方で稲渕集落の先に存在する「栢森集落」の入口には、女陰を象った「女綱(めづな)」が掛けられている。稲渕では儀式が神式で執り行われているのに対し、栢森では竜福寺の住職による仏式の祈祷が行われているのが対象的だ。また栢森はより上流に位置することから開けた土地が少なく、飛鳥川の川筋にへばりつくように築かれた石積みの上に集落が連なっている。建ち並ぶ家々は白漆喰と立板張りの民家が多く、中には主屋を急傾斜の茅葺屋根とし下屋を緩傾斜の瓦葺屋根とする「大和棟」と呼ばれる伝統家屋も現存する。集落内には飛鳥川へ下りる為の石段を備えた「アライバ(洗い場)」が設けられいる箇所もあり、飛鳥川が集落の生活に深く関係していたことが良く分かる。 飛鳥川の源流は「細谷川」「寺谷川」「行者川」の三本から成り、それらが栢森集落内で合流してひとつの流れを作り出している。そのうち「細谷川」の上流には「女淵(めぶち)」「男淵(おぶち)」と呼ばれる二つの滝淵が存在しており、それぞれ女と男の竜神が棲んでいると言い伝えられている。いずれも雨乞いに霊験が著しいとされ、『日本書紀』の皇極天皇元年(642年)の条においても「皇極天皇(後に重祚して斉明天皇となる)が“南渕”の河上でひざまずいて四方を拝み、天を仰いで祈ったところ、たちまち雷が鳴り響いて五日間の雨が降り注ぎ、天下をあまねく潤した」と記されており、その“南渕”がこの“女淵”ではないかと考えられている。 栢森集落からさらに東の山を登ったところには、奥飛鳥の最深部にあたる「入谷集落」が存在する。80mもの高低差がある斜面に身を寄せ合うようにして家屋が集まっており、栢森集落と同じく大和棟の家屋も散見できる伝統集落である。石灯篭や地蔵尊といった古い石造物も見られ、自然に囲まれた山上の環境と相まって、小集落ではありながら歴史あるたたずまいを見せている。また入谷集落の南麓からは、飛鳥から最短で吉野へと抜ける「芋峠(いもとうげ)」の古道が続いている。かつて天武天皇や持統天皇などの吉野行幸の際にも用いられた道と考えられており、大正元年(1912年)に吉野軽便鉄道(現在の近鉄吉野線)が開通するまでは吉野へ物資を運ぶ流通の道として利用されていた。 2017年05月訪問
【アクセス】
近鉄吉野線「飛鳥駅」よりレンタサイクルで約20分。 【拝観情報】
散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 Tweet |