―大谷磨崖仏―
おおやまがいぶつ
栃木県宇都宮市 特別史跡 1954年指定 栃木県、宇都宮市の郊外に広がる大谷地区は、田園の中に特異な形状の山や奇岩が連なり、独特の景観を作り出している。これら大谷の山々は、軟らかくて加工がしやすい軽石凝灰岩により形成されており、それから切り出した石材は大谷石と呼ばれ、古くより建材として利用されてきた。その大谷地区にそびえる山の一つ、御止山(おとめやま)の南麓には、天台宗の仏教寺院、大谷寺が存在する。えぐられた岩窟に覆われるように建つ大谷寺の本堂内には、岩肌に刻まれた本尊の千手観音像を始め、計10体の磨崖仏が彫られている。これらは造形が良く、状態も良好である事から、日本における磨崖仏の代表例として価値が高く、国の特別史跡および重要文化財に指定されている。 大谷寺の創建は定かではないが、伝承によると弘仁元年(810年)、弘法大師空海が千手観音像を刻み、それを本尊として開山したとされる。鎌倉時代になると、坂東三十三観音の第19番札所として人々の信仰を集め、宇都宮と日光を治めていた宇都宮氏の庇護を受け、大いに栄えたという。その後の安土桃山時代には、豊臣秀吉によって宇都宮氏が改易されてしまい、大谷寺は一時衰退を余儀なくされたものの、江戸時代初期の元和年間(1615〜1624年)、徳川家康の長女であり、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)の正室であった亀姫(かめひめ)が援助を行い、当時の住職であった伝海が中興を果たしたという。なお、この伝海は、江戸幕府のブレーンであった天海の弟子である。 大谷寺の磨崖仏は、本堂の正面からその左手に伸びる岩窟の内部に刻まれており、全部で四つのグループに分ける事ができる。第一区は本尊の千手観音像で、その高さは約4メートル。平安時代初期の作とされている。壁面に粗彫りした後、その上に粘土を盛って造形し、漆を塗って金箔を施した石心塑像であったが、江戸時代初期の火災によって焼けてしまい、その際に表面の粘土が剥落。現在は石心の部分のみが露出している。第二区は、釈迦如来像、文珠菩薩像、普賢菩薩像の釈迦三尊像と伝わり、平安時代後期の作と考えられている。中央の坐像は約3.3メートル。上部がせり出した斜面に刻まれ、下部を薄く、上部を厚く彫られており、遠近感を意識して作られている。 第三区は平安時代初期のもので、大谷寺の磨崖仏の中では最も古いものであるとされる。風化が激しく、その姿はあいまいであるが、薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像の薬師三尊像と伝わっている。高さは約1.2メートルと、他のものより小さめであり、また像の下部には扉が設けられていたと思われる穴が穿たれている。第四区は他のものよりやや時代が下り、鎌倉時代に作られたと考えられている。阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩像の阿弥陀三尊像と伝わっており、その高さは約3メートル。三尊の上部には、六体の化仏が彫られている。他と比べて状態が非常に良いが、これは江戸時代に修理が施され、その際に新たに粘土を盛って、造形を整えた為だ。 なお、昭和40年(1965年)に発掘調査が行われ、これらの磨崖仏が彫られている岩窟の下から、縄文時代から弥生時代にかけての土器や石器、人骨などが発見されている。それまで、関東地方における縄文土器は約9000年前の「井草式」が最古とされていたが、それよりも古い土器が三種類発見され、それぞれ「大谷T式」「大谷U式」「大谷V式」と名付けられた。また、手足を折り曲げた屈葬状態の人骨が出土し、これは発掘当初、約7千年前の縄文時代早期末のものと考えられていたが、平成10年(1998年)に改めて年代測定を行ったところ、それは約1万1000年前、縄文時代草創期のものである事が判明した。これは、ほぼ完全な状態の人骨として、縄文時代最古のものである。 大谷磨崖仏が彫られた岩窟のある御止山を含め、大谷地域一帯の軽石凝灰岩は、およそ2400万年前に海底火山の噴出物が堆積した事で生み出された。日本列島が隆起してからは、自然の力によって浸食が進み、今に通じる奇岩の景観が誕生する。近世から近代にかけては、それに石切り場の風景も加わり、極めてユニークな文化的景観が生み出された。それらの風景は「陸の松島」と称され、紀行文や絵画、俳句など、様々な芸術作品のモチーフにも用いられている。平成18年(2006年)には、その景勝地としての価値が認められ、奇岩群の中核である御止山と、奇岩群の北端に位置する越路岩(こしじいわ)の二箇所が、国の名勝に指定された。 2006年07月訪問
2011年09月再訪問
【アクセス】
JR東北本線「宇都宮駅」より関東バス「立岩行き」で約30分、「大谷観音前バス停」下車、徒歩約5分。 【拝観情報】
拝観料300円。 拝観時間は4月〜10月が8時30分〜16時30分、11月〜3月は9時〜16時。 ・臼杵磨崖仏(特別史跡) Tweet |