一乗谷朝倉氏遺跡

―一乗谷朝倉氏遺跡―
いちじょうだにあさくらしいせき

福井県福井市
特別史跡 1971年指定


 戦国時代に越前国を支配していた武将、朝倉氏。一乗谷朝倉氏遺跡は、その朝倉氏の山城や居館、城下町を包括する城郭都市遺跡である。7代朝倉孝景(あさくらたかかげ)から織田信長に滅せられる11代朝倉義景(あさくらよしかげ)までの長きに渡り、越前の中心地として、また日本有数の城下町として発展した一乗谷は、朝倉氏滅亡のその際に、徹底的に焼き尽くされ無人の廃墟と化した。以来、長きに渡り土の中に眠っていた一乗谷の遺跡群は、近年の発掘調査によってその良好な保存状態の遺構が明らかとなり、出土品も膨大であることから、一乗谷一帯の278万7265平方メートルが特別史跡に指定されている。




一乗谷の城下町、町家の遺跡

 但馬地域の豪族であった朝倉氏は、南北朝時代には甲斐氏、織田氏とともに斯波(しばた)氏に仕えていた。朝倉氏が但馬から越前に入ったのも、斯波氏に伴われてのことだったとされる。しかし室町時代に入ると、斯波氏は部下の甲斐氏と対立。朝倉氏もまた甲斐側に付いて君主である斯波氏と戦い、それに勝利した。さらに後の応仁の乱にて西軍に属していた7代朝倉孝景は、越前守護の役職を得ることを条件に東軍へと寝返り、甲斐氏を追放。守護として越前の支配を確立する。以降、朝倉氏は戦国大名として最盛期を迎えるが、その時期に朝倉氏が拠点としていたのが、この一乗谷なのである。




一乗谷山の山頂に築かれた一乗谷城、観音屋敷郭の土塁

 南北に流れる一乗谷川によって形成された一乗谷は、その東西を山によって囲まれた、全長およそ1.7kmの細長い土地により成る。越前守護に就いた孝景は、一乗谷の東側にそびえる一乗谷山に城を築き、ふもとに居館を置いた。今もその山頂には、尾根沿いに郭が並び、堀切や竪堀が走るかつての山城の姿を伺うことができ、またふもとの居館跡にも、礎石や庭園、日本最古の花壇跡、それに屋敷を四角く囲う土塁や堀などが良好に残る朝倉義景館をはじめとした複数の屋敷跡が残されており、かつての一乗谷の栄華を垣間見ることができる。




一乗谷への入口である下城戸(しもきど)の巨石石垣

 一乗谷の城下町は朝倉氏の居館を中心に形作られている。居館から一乗谷川を挟んだ向かいには、家臣たちの武家屋敷が置かれ、さらにその周囲に町人たちの町家が建ち並び、谷全体が城下町という様相を見せていた。また朝倉氏は神仏への信仰も篤く、一乗谷には40あまりの寺社が建てられていたという。これらの城下町を守るべく、一乗谷の北と南の端には、城戸(きど)と呼ばれる城門が設けられ、谷の出入口を堅めていた。北の城戸を下城戸、南の城戸を上城戸といい、下城戸には巨石を用いた石垣や土塁、堀が今も残り、上城戸もまた巨大な土塁と堀の跡が現存している。




発掘結果に基き復元された武家町の町並み
このような立体復元がなされた遺跡は全国的にも珍しい

 一方、一乗谷は文化面においても類まれなる発展を見せた。それは、応仁の乱から逃れるべく京都からやってきた公家や僧侶、文人たちの力によるところが大きい。彼らは華やかな京文化を一乗谷にもたらし、また朝倉孝景もそれを積極的に取り入れたことから、一乗谷は文化面においても成熟し、北ノ京と称されるまでになった。人口も増え、この頃の一乗谷には1万人を超える人間がいたという。しかし栄華を極めた朝倉氏も永くは続かず、天正元(1573)年、織田信長によって攻め込まれ、朝倉氏は盟友浅井氏と共に滅ぼされてしまう。信長は一乗谷のすべてを焼き払い、そして一乗谷は歴史の舞台から姿を消した。




広い敷地に礎石が並ぶ、11代朝倉義景の館跡

 灰燼に帰し、完全なる廃墟となった一乗谷は、長きに渡り土の中に埋もれていたが、400年後の昭和42年になって、一乗谷は再び日の目を見ることとなる。一乗谷の本格的な発掘調査が初めて行われたのだ。一瞬のうちに消え、土に埋もれたた城下町は、極めて良好な状態のまま地中に保存されており、この調査によって戦国時代の城下町遺構がほぼそのままの形で発掘された。同時に当時の生活道具や武器、木簡(文字の書かれた木札)などの道具が大量に出土しており、これは当時の生活や文化を知るに極めて貴重な史料であることから、それら出土品のうち2343点が2007年に重要文化財に指定されている。

2009年06月訪問




【アクセス】

JR越美北線「一乗谷駅」より徒歩約30分。

【拝観情報】

拝観自由。

復原町並みは拝観料210円。
拝観時間は9時〜17時(入場は16時30分まで)、年末年始は休み。

【関連記事】

一乗谷朝倉氏庭園(特別名勝)