本居宣長旧宅 同宅跡

―本居宣長旧宅 同宅跡―
もとおりのりながきゅうたく どうたくあと

三重県松坂市
特別史跡 1953年指定


 本居宣長は江戸時代の国学者としてあまりに有名な人物である。三重県の松阪城跡には宣長が12歳から死去する72歳までの60年間を過ごした旧宅が移築保存されている。その本居宣長旧宅は日本を代表する著名な学者の旧宅として高い価値を有しており、移築元である松阪市魚町一丁目の旧宅跡と共に1953年、特別史跡に指定された。




礎石および春庭旧宅、土蔵が残る本居宣長旧宅跡

 本居宣長は享保15年(1730年)松阪の木綿商人の家に次男坊として生を受けた。しかし商売には向いていない気質であったため、母親は宣長に医者になるよう勧め、22歳にて医学勉強のために京へ出ることになる。そこで儒学者である堀景山の下、儒学や漢文学を学んだ。同時に日本固有の古典学、つまり国学にも興味を持ち始め、松阪に戻った宣長は開業医を営みながらも日本書紀や源氏物語など古典文学の研究に勤しんだ。




旧宅跡、入り口右手に残る手水鉢と井戸

 宝暦13年(1763年)、宣長は江戸の国学者である賀茂真淵と対面し(松阪の一夜)、それより本格的な国学研究を開始、35年の歳月を費やして「古事記伝」(現存最古の歴史書である古事記の注釈書)44巻を書き上げた。他にも源氏物語の注釈書である「源氏物語玉の小櫛」9巻などを執筆し、また目で見、耳で聞いて情趣を感じる「もののあはれ」こそ日本文学の本質であると唱えた。




松阪城跡に移築された旧宅

 さて、本居宣長旧宅の建物であるが、元は元禄4年(1691年)に宣長の祖父が養母の隠居所として松阪の職人町に建てたもので、その後享保10年 (1726年)に現在の旧宅跡である魚町一丁目に移築された。宣長は父親が死去した翌年の寛保元年に家族と共にそこへ移り住み、それから没するまでの60 年間を自宅として過ごした。なお、明治42年には公開のため旧宅のみが松阪城跡へ移築され、それが現在の旧宅の現存する場所となっている。




旧宅一階内部の様子

 旧宅の一階は、「店の間」「おいえの間」「中の間」「奥中の間」「仏間」「奥座敷」「台所」で構成されている。宣長は昼間には店の間で診療を行い、夜は奥座敷にて古典講釈を行っていた。二階部分は物置を改装した書斎である。書斎の床の間には36個の鈴が繋がれた柱掛鈴が掛けられており、宣長はその鈴の音を息抜きに楽しんでいたという。それよりこの書斎は「鈴屋」と名付けられ、さらにはこの旧宅自体をも「鈴屋」と呼ぶようになった。




旧宅の縁側から見る庭

 旧宅は松阪城跡に移築された為、魚町一丁目の旧宅跡に鈴屋の建物自体は無いが、それでも礎石は旧態通りに保存されている。また庭の井戸や手水鉢、樹木といった環境物件もかつての通りに残っており、敷地の奥には宣長の息子である本居春庭の旧宅、および土蔵も現存、それらもまた礎石と共に特別史跡の指定を受けている。

2008年01月訪問
2009年07月再訪問




【アクセス】

JR紀勢本線「松阪駅」より徒歩約10分。

【拝観情報】

拝観自由。