―安土城跡―
あづちじょうあと
滋賀県蒲生郡安土町 特別史跡 1952年指定 近江は琵琶湖の東岸にある安土城は、1576年に織田信長が安土山に築城した平山城である。そのすぐ近くにあった観音寺城を手本に作られた安土城は、それまでの城郭において一般的であった土塁ではなく総石垣にて作られた。また安土城は初めて本格的な天守(安土城では天主と書く)が設けられた城でもあり、以降、江戸初期にまでかけて作られた、近世城郭の模範とされる城である。 信長はその時々の情勢に合わせ頻繁に居城を変えていった。もとは名古屋城の前身の那古野城で生まれた信長は、父親の死後、対立していた織田信友を倒し、その居城であった清洲城に移った。その後、美濃へ攻め入るために小牧山城を築城。美濃を落とした信長は、長良川沿いの岐阜城に移って豪華絢爛な居館を建てた。しかし信長はそんな岐阜城をも捨て、最後の居城となる安土城へ移っていく。 信長が近江に城を築いた理由は、その立地条件による。安土城は岐阜城より京都に近いため利便性が高く、かつ中山道や北陸道など交通の要所でもあったことから、ここを押さえることで上杉謙信などの上京を止めることができた。また、安土山は今でこそ陸の中にあるが、かつては東西北の三方を琵琶湖の内湖に囲われた半島であり、琵琶湖の水運も十分に活用することができた。 安土城はその南麓から大手道が180mほど真っ直ぐ伸び、そこから幾度か曲がって本丸へと達する。大手道の脇には家臣の屋敷が建ち並んでいた。通常、城郭は防衛上の理由から曲がりくねった道を作るものであり、このような直線かつ幅の広い道を作ることはまずない。これは、この安土城が守りのためだけのものではなく、城主の力を誇示する目的があったことを表している。 安土城の天守は極めて豪華絢爛なものであった。実際に安土城を訪れたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著書「日本史」によると、天守は五重七階で最上階は金色、その下は朱色の八角形をしており、内部は漆で塗られ、障子壁画で飾られていたという。しかし本能寺の変にて信長が没した直後、天守は本丸御殿と共に焼失してしまい、その本当の姿は永遠に失われてしまった。 安土城の石垣は、比叡山山麓の石工職人、穴太衆によるもので、穴太積みと呼ばれている。穴太衆はもとは寺院などの石垣を作っていたのだが、安土城の石垣を手がけたことでその後も多くの城郭の石垣作りに携わった。また、安土城では石段に石仏が使われているのを目にすることができる。石仏や墓石を城の石垣に転用するのは安土城だけに限った話ではないが、それを誰もが踏み得る石段に使うあたり、信長の精神性を表していると言えよう。 2008年03月訪問
2009年05月再訪問
【アクセス】
JR東海道本線「安土駅」より徒歩約20分(駅前にレンタサイクル有り)。 【拝観情報】
拝観料500円、拝観時間は9時〜17時(季節により変動あり) Tweet |