百済寺跡

―百済寺跡―
くだらでらあと

大阪府枚方市
特別史跡 1952年指定


 百済寺跡は朝鮮半島の百済にルーツを持つ百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)により、奈良時代の中頃に建立された寺院の跡である。その境内には主要建造物の基壇や礎石が良好に残されており、往時の伽藍の様子や朝鮮半島との関係を知る上で極めて重要な史跡となっている。




中門跡から金堂跡を見る

 346年に朝鮮半島南西部で興った百済は、660年に新羅と唐の連合軍によって滅ぼされてしまった。この百済滅亡の際に、百済の王子であった禅広は日本へと亡命。そのまま朝廷に仕えることとなり、持統天皇より百済王の性を賜り百済王禅広と名乗るようになった。




右手前は東塔跡、左奥は西塔跡

 時代は下り、百済王禅広のひ孫である百済王敬福は陸奥守となっていた。当時、聖武天皇が東大寺の大仏を建立しようとしていたのだが、大仏に塗るための金が不足していた。敬福はこの時、900両もの金を朝廷へ献上。その功績により河内守に抜擢され、そしてその地に氏寺として百済寺を創建した。




伽藍配置図
主要建造物が南から北にかけて一直線に並んでいるのが分かる

 その伽藍は南から北へ、南大門、中門、金堂、講堂、食堂が一直線上に並ぶ形を取っていた。中門から金堂へは回廊が渡され、金堂の手前左右には西塔と東塔が置かれていた。いわゆる薬師寺式伽藍に近い形であるが、薬師寺式伽藍は回廊が中門から講堂に接続されるのに対し、百済寺は中門から金堂に接続されている点が異なっており、これは新羅の感恩寺の形式であると言われている。




東塔跡に残る礎石
百済寺跡では主要建造物の礎石が良好に残る

 百済寺跡の発掘調査は1932年より三度行われている。二度目の発掘である1965年の調査後に百済寺跡は公園として整備されたが、このような史跡公園の整備は全国で初めてのことであった。さらに2005年より三度目の発掘調査が行われており、奈良時代末期から平安時代初期にかけての瓦や渡金された飾り金具、覆鉢や露盤など、数多くの品々が発見されている。




百済寺跡に鎮座する百済王神社

 百済寺跡の西側には、敬福が氏神として百済寺と共に建立した百済王神社が鎮座している。百済寺や百済王神社はたびたび火災により焼失し衰退していったが、その後に奈良の興福寺により再興が図られている。興福寺と百済寺の結びつきは強く、百済王神社に現存する本殿は、春日大社が遷宮の際にその旧本殿を移築した、いわゆる「春日移し」である。

2008年08月訪問




【アクセス】

京阪電気鉄道京阪本線「枚方市駅」から徒歩約20分。
京阪電気鉄道交野線「宮之阪駅」から徒歩約10分。

【拝観情報】

拝観自由。