―水城跡―
みずきあと
福岡県大宰府市、大野城市、春日市 特別史跡 1953年指定 水城(みずき)とは、大和朝廷の地方行政機関である大宰府を守るために作られた土塁(敵の侵入を防ぐための土手)である。大宰府は九州を統べる行政機関としての役割のみならず、福岡湾の南に位置するという立地から大陸の玄関口として海外交易や防衛の拠点という非常に重要な役目も担っていた。しかし、それは同時に大陸からの脅威にさらされやすい場所にあるとということでもある。そのような大宰府を守る城壁として作られた水城の大土塁は、基壇の幅約幅80メートル、土塁本堤の高さが約13メートルであり、その全長はなんと1.2キロメートルにも及ぶ極めて巨大なものである。 663年、大和朝廷を揺るがす大事件が朝鮮半島で起きた。白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて、倭と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に大敗を喫したのである。この敗戦を受け唐が攻め込んでくるのではないかと危惧した大和朝廷は、まず最初に狙われるであろう大宰府を守ろうと、博多平野から大宰府へと入るその入口の平野部に長城のような巨大土塁を築くことにした。その作業は大急ぎで進められ、翌664年に水城は完成する。さらにその翌年の665年には大宰府背後の四王寺山に大野城が、大宰府南西の基山に基肄城が築かれ、大宰府の守りは徹底的に固められた。 水城の大土塁は当時の最先端土木技術をもって作られた。まず土塁を築く前の基礎工事では、敷粗朶(しきそだ)という工法により緩い地盤を強化している。これは地面に樹木の枝や葉を敷き詰めるというもので、地盤沈下や地すべりを防ぐ効果がある。次に基盤の上に築かれた土塁であるが、これは木の枠に土を詰めて棒で突き固め、それを何層にも重ねて高くする版築(はんちく)の工法によって築かれている。版築は大陸から伝わった土壁の造成技術であり、この版築で作られた土塁は非常に高い強度を持つことから、古代より土壁や土塁の作成に用いられてきた。 水城の土塁外側には敵の侵入を防ぐための水濠が掘られていたことが分かっている。その深さは4メートル、幅は60メートルであり、水は大宰府から水城を経て福岡湾に流れる御笠川から引かれていた。川の水は一旦土塁の内側に溜められた後、土塁の下に埋め込まれた木樋(もくひ)と呼ばれる導水管を通って濠に供給される仕組みである。このように、大土塁は高度な土木技術で作られたものであるが、この大土塁の北西に位置する大土居や天神山、上大利などといったところにも、小水城(こみずき)と呼ばれる小規模な土塁が大土塁と同様の技法で築かれており、大土塁と同じく特別史跡に指定、保存されている。 大土塁の東西二ヶ所には関所代わりの門が設けられていた。そのうちの東門は大野城のある四王寺山から伸びる尾根のたもと、大土塁が始まるその東端に位置しており、現在国道3号線が通るその東門跡には礎石が一つ残されている。西門は大土塁の西端である牛頸丘陵のほど近くに位置しており、こちらもまた礎石が発見されている。この西門は8世紀に二度建て直されたことが判明しており、最初のものは実戦的な簡素なものだったが、危機が去った後の三代目のものは見栄えを重視した立派な楼門であったという。また西門のすぐ西の土塁上には、見張り台の望楼らしき建物があった痕跡が見つかっている。 これほどの規模を持つ水城や山城が整えられながらも、結果的に唐が攻め込んでくることはなかった。時は流れて鎌倉時代、当時大陸を支配していたフビライハーンの命により蒙古軍が日本へ侵攻してきた。一度目の元寇、文永11(1274)年の文永の役である。再び大宰府を守る必要性が生まれたことから、急遽水城はその土塁を積み直され、濠も掘り直されるといった修復工事が行われ、水城は再び屈強な城壁へと蘇えることとなった。なお蒙古群は博多湾から九州へ上陸してきたものの、日本勢はこれを海岸付近で食い止め撃退することに成功したため、この時もまた水城が戦場になることはなかった。 2009年03月訪問
【アクセス】
JR鹿児島本線「水城駅」から徒歩約5分。 【拝観情報】
見学自由。 ・大宰府跡(特別史跡) ・大野城跡(特別史跡) ・基肄(椽)城跡(特別史跡) Tweet |