―大野城跡―
おおのじょうあと
福岡県太宰府市、糟谷郡宇美町、大野城市 特別史跡 1953年指定 かつて九州を統治し、大陸との玄関口という役割を担っていた地方行政機関、大宰府。その大宰府政庁の背後にそびえる四王寺山に、古代山城である大野城は築かれた。大野城は大宰府の北側を守るために築かれた山城であり、大宰府南側を守る基肄城(きいじょう)や、大宰府入口の平野部を守る水城(みずき)と共に、大宰府防衛の要として整備された。その広大な城域には土塁や石垣、門跡や建物跡などの遺構が数多く残っており、その歴史的重要性もあいまって特別史跡に指定されている。なお、最初に特別史跡の指定を受けた時、その指定範囲は主要遺構のみに限定されていたが、後の調査で山全体を土塁で囲う巨大山城の全貌が明かされたことから、1981年に四王山全体へと拡大された。 飛鳥時代の663年、百済を助けるべく朝鮮半島へと赴いた倭国の軍勢は、白村江の戦いにおいて唐と新羅の連合軍に大敗を喫してしまう。これにより、唐が日本へ攻め込んでくるのではないかと危惧した大和朝廷は、ただちに北九州沿岸に防人(さきもり)を配備して海岸線の守備を強化、翌664年には大宰府の入口平野部に水城という巨大土塁を築き上げ、大宰府を防衛した。そしてそのさらに翌年の665年、より一層守りを堅固なものにするため、北九州から瀬戸内海沿岸の山々に城を築かせて唐の来襲に備えた。大野城はその時作られた古代山城の一つ、大宰府の防衛施設として最も重要な役目を担っていた城である。 大宰府北側に築かれた大野城、および大宰府南側に築かれた基肄城は、百済から亡命してきた技術者である億礼福留(おくらいふくら)と四比福夫(しいふくぷ)の二人の指導の元、築城された。これら両城をはじめ、この時代の古代山城は当時の朝鮮山城をベースに作られており、それゆえ朝鮮式山城とも呼ばれている。朝鮮式山城は大野城、基肄城以外にも数多く築城されたが、大野城はそれら中で最も規模の大きいものだ。その範囲は東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルに渡る四王寺山全体であり、面積はおよそ180ヘクタールにも及んでいる。 四王寺山は中心部が盆地のようにくぼんでおり、その周囲をぐるりと取り囲むように尾根が走るという、いわばすり鉢状の地形である。大野城はその環状の尾根に沿って土塁を巡らし城壁とし、その内側に建物を配置する構成を取る。広大な四王寺山を取り囲む土塁は極めて長大で、その長さはおよそ6.5キロメートル。二重に築かれた部分も含めると土塁の総延長は8キロメートル以上にもなる。大野城に設けられた城門ははっきり確認されているだけで四ヶ所。南側の土塁には大宰府口、坂本口、水城口の門が、北側の土塁には宇美口が設けられており、それらの門跡には礎石が残っているところも多い。 土塁は尾根に沿って築かれているが、中には尾根を分断する谷間が存在する箇所もある。そのような所では土塁の代わりに石垣を積んで敵の侵入を防いでいた。大野城の石垣は大石垣、水の手石垣、百間石垣、北石垣、小石垣の計五ヶ所だが、その中で最も有名なのは、やはり百間石垣であろう。大野城の北口にあたる宇美口に築かれた百間石垣は、全長が約150メートルと大野城の石垣の中で最も規模が大きいものだ。石垣の内部には栗石を詰めて水はけを良くし、また石垣の下には地下水を逃がす吐水口も設けられていた。このように大野城では、石垣の排水設備や屯水というトンネル状の排水石組など、水害への対策をいくつか見ることができる。 大野城の城内には、主城原礎石群や村上礎石群、増長点礎石群など、数多くの礎石群が散在している。これらはかつて建物が存在していた場所であり、柱の下に敷かれた礎石だけが残っているものだ。これらの礎石の建物はいずれも高床式の建造物であり、焼けた米などが発掘されていることから食料や武器類が備蓄されていた倉庫であったと考えられている。大野城には他にも水の湧く鏡池や、石積みの井戸などが備えられ、水の確保がなされていた。これらにより大野城は篭城のための城だったことが分かる。万が一、敵が大宰府に攻め込んできたら、一旦大野城に避難して立てこもり、その後に機会をうかがって再び大宰府を奪い返すという作戦に基づくものだ。 2009年03月訪問
【アクセス】
西鉄天神大牟田線「都府楼前駅」から大宰府跡経由で徒歩約60分(登山道)。 西鉄大宰府線「大宰府駅」から徒歩約40分(林道)。 山中の遺構を一通り見学するとなるとほぼ一日必要。 【拝観情報】
見学自由。 ・大宰府跡(特別史跡) ・水城跡(特別史跡) ・基肄(椽)城跡(特別史跡) ・金田城跡(特別史跡) Tweet |