―吉野ヶ里遺跡―
よしのがりいせき
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町、神埼市 特別史跡 1991年指定 佐賀平野の東部、吉野ヶ里丘陵の一帯およそ59ヘクタールの土地に広がる、国内最大の弥生時代環濠集落、それが吉野ヶ里遺跡である。この丘陵地で発見された無数の集落跡は、周囲を堀や土塁で囲い、さらにその上に柵を設けるなど、極めて防御性の高いものであった。弥生時代の全期に渡る集落遺構が残り、かつ出土品も良質なことから、吉野ヶ里遺跡は弥生時代における人々の定住化に伴うクニの形成、およびその成長を語る上で非常に重要な遺跡であるとされ、平成2年には国の史跡に指定。翌年平成3年に特別史跡に指定され、さらにその翌年平成4年には国営公園として整備されることが決定した。 弥生時代は紀元前3世紀ごろから3世紀頃まで、およそ600年間続いた時代であるが、その初期には既に、吉野ヶ里丘陵にも人の集まる集落、すなわちムラが散在的に存在していた。次第にそれらのムラは、自衛のため堀で囲んだ環濠集落となり、特に弥生時代中期以降は周囲のムラとの争いが盛んになった事から、集落を守るための防衛策もより高度で大規模なものになっていく。そして弥生時代後期には、吉野ヶ里のムラは極めて巨大なクニへと発展し、多大なる繁栄を見せた。なお、この吉野ヶ里のクニは、邪馬台国のような広範囲を統べる大国といった類のものではなく、その当時において北九州にいくつかあった有力集落の一つであるというのが現在の通説だ。 吉野ヶ里遺跡に残る遺構は、弥生時代初期から後期にかけての幅広い年代に渡るが、現在、遺跡内に復元整備されている建物群は、そのうち後期の遺構に基くものである。実際の遺構に盛り土をしたその上に、同時代の銅鐸に描かれた建物の図や、中国の例などを参考にしてデザインされた建物が推定復元され、往時に近い姿が再現されている。既に整備されているものとしては、クニの中心部であった北内郭と南内郭、それらを取り囲むように存在するいくつかのムラと市、そして信仰の対象であった北墳丘墓を中心とする墓地などがあり、中でも北墳丘墓は発掘時の状態がそのままに展示されており、圧巻である。 吉野ヶ里遺跡の中心区域の一つである南内郭は、吉野ヶ里やその周辺一帯を治めていた王とその側近といった、支配者層が住んでいた地区である。二重の深い堀と土塁に囲まれたその内部には、王たちが住まった竪穴式住居や集会所などがあり、それらを守るべく兵士たちの詰め所も建てられている。また内郭の各所に高床式の物見櫓が築かれ、周囲に睨みを利かせていた。南内郭へ至る道には櫓門が設けられており、ここで兵士たちが下を通る人々を監視していたと考えられている。これらの遺構はまるで後の城郭のようであり、弥生時代の環濠集落が中世の城郭へと発展したと考えても不自然では無いだろう。 南内郭が王たちの住居だったのに対し、北内郭は祭祀と政治のための区画である。そこは吉野ヶ里で最も重要な場所であり、二重の堀が巡らされているのは南内郭と同様であるが、その入口が鍵形に折れた、より防御力の高い虎口となっている。内部には主祭殿をはじめとした祭祀の為の建物が立ち並び、四基の物見櫓が周囲四方を守護していた。なお、この主祭殿の北方延長上には祖先の墓である北墳丘墓がある。司祭者は主祭殿から北墳丘墓に向けて祈りをささげ、そこから神託を得ていたのだ。王たちがクニの重要な事柄を主祭殿で話し合い、まとまらない時はその神託を基にして決定を下していたという。 吉野ヶ里の人々が祈りをささげていた北墳丘墓の手前一帯には、弥生時代中期の墓地が残されている。埋葬方法は大型の素焼きの土器を棺として埋める甕棺墓(かめかんぼ)であり、60mの長さに渡って2000基もの甕棺が列を成して発見された。北墳丘墓自体は歴代の王の墓と考えられており、そこから発見された8基の甕棺からは、ガラスの管玉や銅剣など、高貴な身分を示す品々が出土している。またこの北墳丘墓の他に、集落の南側に南墳丘墓と呼ばれる土壇もある。しかしこちらからは墓の遺構が見つかっておらず、代わりに貝や魚、鳥などの骨が詰まった土器が発見されていることから、墳丘墓ではなく祭壇であると考えられている。 2009年09月訪問
【アクセス】
JR長崎本線「吉野ヶ里公園駅」から徒歩約10分。 【拝観情報】
拝観料400円。 拝観時間は9時〜17時(6月1日〜8月31日は9時〜18時)。 ・登呂遺跡(特別史跡) ・原の辻遺跡(特別史跡) Tweet |