―三仏寺奥院(投入堂)―
さんぶつじおくいん(なげいれどう)
鳥取県東伯郡三朝町 国宝 1952年指定 鳥取県の中央部、その山中にある天台宗の仏教寺院が三仏寺である。三仏寺は標高900メートルの三徳山全体を寺域とし、その山号も三徳山という。古代より修験道の霊場として発達した三仏寺は、主に本堂などのある山下と、奥院などがある山上とで成っており、それらは原生林の中を通る一本の登山道によってのみ結ばれている。そのうち山上の奥院は、オーバーハングした崖に堂宇がはめ込まれたかのような、他に類を見ない特異な建築物であり、そのあまりに不思議な外観により、三仏寺の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)によって投げ入れられたという伝説が語られ、それより投入堂と呼ばれるようになった。 三徳山三仏寺の開山は、飛鳥時代末期の慶雲3(706)年。修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)、いわゆる役行者によって開かれたとされる。修験道とは、険しい山々で修行を行うことにより、神通力を得ることを目的とする信仰のことで、三仏寺はその修行の場として創設されたのだ。その後の平安時代の嘉祥2(849)年には、慈覚大師円仁によって伽藍が整備され、その際に釈迦如来 、阿弥陀如来、大日如来の三仏が本尊として置かれたことから、三仏寺という寺名になったと伝わっている。三仏寺は最盛期には1万町歩(10平方km)もの寺領を有する大寺院として発展し、江戸時代には鳥取藩の庇護の下に存続していった。 三仏寺は入口から両脇に子院の並ぶ長い石段が続き、天保10(1834)年に再建された本堂に至る。この本堂の裏手には宿入橋(しくいりはし)があるのだが、山上への登山道はここから始まり、いくつかの難所を越えて投入堂に到達する。それはまさに修行の場と言うべき険しい道のりであり、木の根や岩をよじ登らなければならない場所も少なくない。馬ノ背と呼ばれる岩場を越えるとその先がようやく山上であり、そこには大小さまざまな堂宇が崖下の窪みに並んでいる。これらだけでもあまり例の無い光景ではあるが、投入堂があるのはそのさらに先、一番奥まった場所にある崖の中腹である。 その崖にへばりつくように存在する特殊さゆえ、投入堂は懸造(かけづくり)で建てられている。懸造とは舞台造とも呼ばれ、地形に合わせて高い柱を立て、その上に床を作る形式のことだ。その規模は桁行一間、梁間二間。周囲に高欄付きの縁が巡っている。屋根は檜皮葺の流造(ながれづくり)であり、両側面に庇屋根が付き、さらにその隅に隅庇屋根が付いている。流造は神社の建築様式であり、また平安時代末期に作られた木造の狛犬が奉納されていることからも、もとは神社建築として建てられたことが分かる。なお、木材の年輪年代測定により、投入堂の建築年代は平安時代後期の11世紀後半と判明したが、これは神社建築としては最古級の古さである。 本来投入堂は、修験道に縁の深い蔵王権現を祀る蔵王堂であり、その内部には蔵王権現立像(重要文化財)が安置されていた。投入堂の 建物に使用されている木材は全て檜で、垂木からはベンガラで塗られた跡が見つかっている。最近の調査によると、かつて投入堂の柱は赤く、壁は白く、そして垂木の先端には金の装飾が施されていたという。また、投入堂の左側には愛染明王を祀る愛染堂がこぢんまりと付属している。それは投入堂とほぼ一体と化しており、投入堂と同時に作られたものと推測される。この愛染堂もまた、投入堂の棟札や大正時代の修理で取り替えられた古材と共に、投入堂の附けたりとして国宝指定を受けている。 山下と山上を繋ぐ登山道の途中にも、いくつかの堂宇が残っているのだが、そのうち地蔵堂と文殊堂の二棟が重要文化財に指定されている。これらは場所は違えどいずれも絶壁の上に作られており、投入堂と同様の懸造となっている。地蔵堂、文殊堂のどちらも間口3間に、奥行が4間、屋根はこけら葺きで、周囲に回廊を巡らしており、外観はどちらも似通っている。地蔵堂は内部の形などから室町時代後期のものであるとされ、また文殊堂は安土桃山時代の建立と考えられていたが、平成17年の修理により永禄10(1567)年の墨書が発見され、それにより地蔵堂と同時期にまで遡る建築であることが判明した。 2008年08月訪問
【アクセス】
JR山陰本線「倉吉駅」から「三徳山」、もしくは「吉原」行きバスで約30分、三仏寺本堂脇の入山受付から「投入堂」まで徒歩約1時間。 【拝観情報】
三仏寺境内の拝観料400円、拝観時間8時〜17時。 投入堂への入山は別途入山料200円、入山受付時間8時〜15時。 靴のチェックがあり、不適格な靴の場合にはわらぞうり(500円)を購入する事になる。また安全の為単独入山はできず、一人の場合は他の人と組んでの入山となる。 Tweet |