―大善寺本堂―
だいぜんじほんどう
山梨県甲州市 国宝 1955年指定 甲府盆地の東端、あたり一面にぶどう畑が広がる勝沼ぶどう郷。その見晴らしの良い丘陵地帯の山腹に、「ぶどう寺」と称され人々に親しまれてきた、大善寺という真言宗の仏教寺院がある。平安時代初期に刻まれた薬師三尊像(重要文化財)を安置している事から、薬師堂とも呼ばれている大善寺の本堂は、二度の焼失の後、鎌倉時代後期の弘安9年(1286年)に鎌倉幕府第9代執権の北条貞時(ほうじょうさだとき)により再建された。これは関東地方に現存する木像建造物では最古のものである。また和様を基本としながらも、部分的に大仏様が取り入れられている、いわゆる新和様建築のその建築は、旧来の和様から新和様建築への変化を示すものとしても重要である。 大善寺が「ぶどう寺」と呼ばれるようになったのは、大善寺の創建伝説に起因するものである。養老2年(718年)、僧侶の行基がこの勝沼の地を訪れ、日川の岸にそびえる大岩の上で修行を行った。すると修行を開始してから21日目の夜に、右手にぶどう、左手に宝印を携えた薬師如来が夢の中に現れたのだという。行基はその夢で見た阿弥陀如来の像を彫り、寺院を建ててそこに安置することにした。これが現在の大善寺であるという。また行基はぶどう園を作り、その栽培法を近隣の人々に教授した。土地と気候がぶどう栽培に適していたこともあり、こうして勝沼はぶどうの郷になったのだという。 大善寺は武田氏とも縁のある寺である。甲斐の虎と称された名将、武田信玄が病に倒れ没した後、その息子である武田勝頼(たけだかつより)は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにて織田、徳川の連合軍に大敗してしまう。この戦いで力衰えた勝頼はその後の武田征伐により窮地に立たされ、新府城から大月の岩殿城へと逃亡を試みた。その道中、勝頼らが一夜を明かしたのがこの大善寺本堂である。しかしその夜、多くの家臣が勝頼を見限ってその元を去り、挙句の果てに岩殿城主である小山田信茂(おやまだのぶしげ)の裏切りを知らされ、ついに勝頼は天目山の麓にて自刃する。大善寺の尼僧であった理慶尼(りけいに)は、その顛末を理慶尼乃記に記しており、それは今でも大善寺に保管されている。 大善寺の本堂は桁行五間、梁間五間の17.4メートル四方。このような正方形の平面を持つ仏堂は、中世の密教寺院にて多く見ることができる。屋根は軒の深い一重の檜皮葺で、寄棟造(妻側が三角形、平側が台形の形を持つ屋根)だが、大棟(最上部の水平な棟)が非常に短く、まるで宝形造(どの面も三角形に見える、ピラミッド型の屋根)のように見える。この屋根は江戸時代の修理の際に改修されたものであり、元々この形だったかは不明だ。軒下の組物は二手先で、軒支輪(のきしりん、軒桁を繋ぐ丸みを帯びた部分)が入る。基本的に和様(日本古来の様式)の建築であるが、組物の下には大仏様の木鼻(きばな、頭貫の先端が飛び出た部分)も見ることができる。 本堂の壁は全て板張りで、その周囲には縁側が巡らされている。正面三間には桟唐戸(さんからど、骨組みに板を張った扉)がはめられ、その左右一間には連子窓(れんじまど、細い木材を並べた和様の格子状窓)が開いている。内部は正面入口より前二間を外陣、後ろ三間が内陣とし、その間は格子戸で仕切られている。内陣のうち左右一間ずつが脇陣、須弥壇の後ろ一間は後陣だ。これら内部の構造もまた、中世密教寺院の特徴を良く表している。内陣には須弥壇(しゅみだん)が設けられ、その中央には入母屋屋根の厨子が置かれている。この厨子は本堂より少し時代が下る文和4年(1355年)のものだが、この厨子もまた本堂の附けたりとして国宝指定を受けている。 厨子の内部には本尊の薬師如来坐像とその脇侍である日光菩薩像、月光菩薩像の薬師三尊像が安置されている。厨子の左右には脇侍とはまた別の日光菩薩立像、月光菩薩立像が立ち、それらを取り囲むように十二神将像が並んでいる(いずれも重要文化財)。本尊の薬師三尊像は、その作風より平安時代初期に作られたものであるとされる。それ以外の日光菩薩像、月光菩薩像、十二神将像は、甲斐国の仏師である蓮慶(れんけい)が鎌倉時代の嘉禄3年(1227年)年に手がけたものであることが、十二神将像の胎内から発見された銘により判明している。ただし、十二神将像の中には作風の違うものもあり、全てが全て蓮慶の作というわけでは無いようだ。 2008年11月訪問
2011年08月再訪問
2015年05月再訪問
【アクセス】
JR中央線勝沼「ぶどう郷駅」から徒歩約30分。 【拝観情報】
拝観料500円、拝観時間9時〜16時30分(入場は16時まで)。 Tweet |