―如庵―
じょあん
愛知県犬山市 国宝 1951年指定 犬山城がそびえる木曽川のほとり、名鉄犬山ホテルに隣接する有楽苑(うらくえん)。静かな庭園に囲まれたその園内には、旧正伝院(しょうでんいん)書院と、それに付属する茶室の如庵がたたずんでいる。この書院および如庵は、共に織田信長の弟である有楽斎(うらくさい)こと織田長益(おだながます)の手によって京都に建てられたものであるが、紆余曲折を経て現在の地に移され安住を得た。特に如庵はその巧な構成より、京都の山崎にある千利休が建てた待庵(たいあん)、および京都の大徳寺の塔頭である龍光院の蜜庵(みったん)と共に、日本三名席と称される茶室として国宝に指定されている。 如庵は波乱の経緯をたどってきた茶室である。京都にある建仁寺の塔頭、正伝院(しょうでんいん)を隠居所として復興した有楽は、そこに書院と如庵を築いた。しかし正伝院は、明治6年(1873年)に永源院と合併する為廃寺となり、書院と如庵は祇園町に払い下げられ祇園女紅場(芸妓を対象とする教育施設)の宴席となる。明治41年には大財閥である三井家の手へと渡り、東京都麻布の三井本邸に移築された。さらにその後の昭和12年には、太平洋戦争の戦火を免れる為に神奈川県の大磯にある三井家別邸へと移され、そして戦後の昭和45年、今度は名古屋鉄道がそれらを買い上げ、昭和47年に現在の犬山城下へと移築されたのだ。 小さな萱門をくぐると、正面に旧正伝院書院が建ち、左手に芝生の広がる開放的な路地に迎えられる。前方へと伸びる飛び石は、書院の手前で四方向へと分岐し、そのうち右手に進むと、緩やかなカーブを描いて如庵の前へとたどり着く。さらに右手へ進むと、そこには有楽好みと言われる井筒「佐女牛井(さめがい)」が設けられており、またその傍らには「釜山海(ふざんかい)」と呼ばれる手水鉢の蹲踞(つくばい)が組まれている。この手水鉢は、戦国大名の加藤清正(かとうきよまさ)が、文禄の役で朝鮮半島に渡った際に持ち帰ったとされる石で、その穴は波の浸食によって自然にできたものであるという。 如庵はこけらで葺かれた一重の片入母屋造の屋根を持つ茶室である。妻面を向けた正面の左側には、奥へと入り込んだ土間庇が作られており、その土間庇の右側面に茶室内部に入る為の躙口(にじりぐち)が開かれている。茶室に入る客人は、この躙口の下にある飛び石に立ち、そこから屈み込んでこの狭い躙口より室内へと入る必要がある。頭を下げねば室内に入る事ができないこの躙口は、茶室では身分の分け隔てなく、全ての人間が平等であるという思想を表している。ただしこの如庵においては、身分の高い人物の為に、頭を下げずとも入れる障子戸の貴人口(きにんぐち)も、土間庇の奥に併設されている。 如庵内部は主人が客をもてなす茶室と、準備や片付けを行う水屋の間、それと書院と如庵を繋ぐ扈従(こしょう)の間から成る。このうち水屋の間は三畳、茶室は二畳半台目の間取りである。二畳半台目とは、通常の畳の二畳半に加え、3/4の長さに切り詰めた台目畳(だいめだたみ)を用いた間取りの事だ。躙口から入って左には台目床(通常より幅がやや狭い床)が設けられており、床脇には斜めに傾斜した地板が入れられ、給仕の際に動ける範囲を広く取っている。勝手口(主人が茶室に入る入口)の前にある台目畳が手前座(主人が座る位置)であり、炉もここに設けられている。炉の脇には中柱を立てて、丸くくり貫いた壁板をはめている。 如庵の窓は、全部で五ヶ所に設けられている。正面である南側には連子窓と下地窓が開いているが、直射日光を嫌う為これらにはすだれがかけられている。東側に設けられた二つの窓は、竹を詰め打ちした有楽窓であり、窓全面を竹で覆っているという性質上、多くの光は入ってこない。躙口の上部にも竹格子の窓が設けられているが、これもまた土間庇の袖壁に遮られ、十分な光量を得られない。茶室内に明かりをもたらすのは、屋根に開かれた突き上げ窓である。壁に設けられた五ヶ所の窓は、光を取り入れる為のものではなく、光を演出する為のものなのだ。このように如庵は、空間の広がりや室内に入る光を計算して設計された、茶室の傑作である。 2007年01月訪問
2010年02月再訪問
【アクセス】
名古屋鉄道犬山線「犬山遊園駅」から徒歩約10分。 名古屋鉄道犬山線「犬山駅」から徒歩約30分。 【拝観情報】
拝観料1000円、拝観時間9時〜17時。 ・妙喜庵茶室(待庵)(国宝建造物) Tweet |