―長谷寺本堂―
はせでらほんどう
奈良県桜井市 国宝 2004年指定 奈良盆地の南東部、桜井から東に向かい、青山峠を経由して伊勢へと至る初瀬街道。その入口にたたずむ初瀬山には、真言宗豊山(ぶざん)派の総本山であり、日本における観音信仰の中心地として多大に栄えた長谷寺の大伽藍が広がっている。その境内の最奥部、初瀬山の中腹において本尊の十一面観音立像を祀る本堂は、江戸時代前期に幕府によって建てられた、巨大な懸造(かけづくり)の仏堂である。なお、懸造とは、斜面の上に長い束柱を立て、その上に堂宇を築く様式の事で、舞台造とも呼ばれている。この長谷寺本堂は、江戸時代前期に建てられた建造物の中でも完成度が極めて高く、徳川幕府が建造した大規模仏堂の代表例でもあり、2004年国宝に指定された。 寺伝によると、長谷寺の創建は飛鳥時代の686年、興福寺の僧侶であった道明(どうみょう)上人が、初瀬山の西の丘(現在五重塔が建つ付近)に銅板法華説相図を安置した事に始まるという(なお、この銅板法華説相図は現存し、国宝に指定されている)。その後、奈良時代の神亀4年(727年)には、徳道(とくどう)上人が聖武天皇の勅願によって東の丘(現在の本堂の位置)に十一面観世音菩薩を祀り、先の西の丘における信仰と一体化して、長谷寺が成立したという。しかしこれらの謂われは不明瞭な点が多く、伝説の域を出ないものだ。その後の平安時代には、長谷寺は主に貴族の参詣によって栄え、鎌倉時代以降は武士や庶民からも信仰を集め、各時代を通じて繁栄した。 長谷寺の本堂は、創建以来実に7度の火災によって焼失している。最後に本堂が燃えたのは室町時代の天文5年(1536年)であり、天正16年(1588年)に豊臣秀長(とよとみひでなが)の援助によって本堂の再建がなされたが、その後の江戸時代初期には徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって建て替えが行われ、慶安3年(1650年)に竣工、それが今に残る本堂である。再建された本堂が60年足らずで建て替えられた理由について、雨漏りが酷かった為とされているが、当時栄華を誇っていた豊臣の建物がそれほどやわなはずがなく、また部材の再利用も無い完全な新築であることから、そこには、徳川が豊臣の遺功を排除しようとした意図が垣間見れる。 徳川の建てた現在の長谷寺本堂は、急斜面を正面にして、初瀬の里を望むように建ち、その建築は、本尊を安置する為の正堂(しょうどう)と、参拝の為の礼堂(らいどう)、正堂と礼堂を接続する相の間より構成されている。そのうち正堂の規模は桁行七間に梁間四間。屋根は一重の入母屋造で平入、周囲に裳階(もこし)と呼ばれる庇が巡らされている。礼堂は桁行四間に梁間九間。屋根は一重の入母屋造だが、こちらは妻入であり、妻面が正面を向いている。さらに、礼堂の屋根の左右には千鳥破風が備えられ、その屋根は極めて複雑な形状を作り出している。懸造になっているのは礼堂の部分で、礼堂の前に設けられた舞台と共に、空中に張り出すように建てられている。 長谷寺本尊の十一面観音立像(重要文化財)は、10mを超える高さを持つ日本最大級の木造仏像である。天文5年の本堂炎上後間もなく、天文7年(1538年)に作られたものだ。現在の本堂が建立された際にはこの本尊を移動せず、像を厨子で覆い、さらにそれを囲むように正堂が建てられた。その為長谷寺本堂は、内陣の中にさらに内々陣(厨子)があるという、複雑な構造となっている。その正堂内部は手前一間が板張りで、奥は石敷きの土間。相の間もまた石敷きの土間で、礼堂は一段高い板張りとなっている。なお、近年の調査によって、本堂落成時の棟札や平瓦、図面や帳簿などが発見された。それらは本堂建立に関する貴重な史料であり、本堂の附けたりとして国宝に指定された。 長谷寺は初瀬山の麓にある仁王門から中腹の本堂まで、屋根付きの階段である登廊(のぼりろう)が続いている。この登廊は、平安時代の長歴3年(1039年)に建てられたのが始まりで、現在のものは本堂と同時期に建てられた。しかしながら、明治時代に火災に遭い、本堂に程近い上登廊と、それに付属する繋廊(つなぎろう)、鐘楼、三百餘社(さんびゃくよしゃ)、および蔵王堂は火の手を免れたものの、中登廊、下登廊、仁王門は焼けてしまい、中、下登廊は明治22年、仁王門は明治18年の再建である。これら登廊とそれに付属する建造物群は、古式の登廊の様相を残すものとして、また長谷寺の信仰景観を作る重要な要素として、その全てが重要文化財に指定されている。 2007年01月訪問
2010年07月再訪問
【アクセス】
近鉄大阪線「長谷寺駅」より徒歩約15分。 【拝観情報】
拝観料500円。 拝観時間は4月〜9月が8時30分〜17時、10月〜3月が9時〜16時30分。 Tweet |