―仁科神明宮 本殿、中門(前殿)―
にしなしんめいぐう ほんでん、ちゅうもん(まえどの)
長野県大町市 国宝 1953年指定 松本盆地の北部に広がる安曇野(あづみの)の地。そこを流れる清らかな水は、北アルプスの伏流水によりもたらされる。屹然と聳え立つ北アルプスの峰々を西に望む安曇野の高台に鎮座するのが、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祭神とする仁科神明宮だ。かつて仁科神明宮の周囲一帯は、仁科御厨(にしなみくりや)と呼ばれる伊勢神宮の神領(荘園)であった。それ故、背の高い杉の巨木が立ち並ぶ社叢の奥にたたずむ仁科神明宮本殿は、伊勢神宮と同じ神明造(しんめいづくり)と呼ばれる神社建築の様式で建てられている。現在に残る仁科神明宮の本殿は、江戸時代の寛永13年(1636年)に建てられたものとされており、現存最古の明神造社殿として国宝に指定されている。 仁科神明宮の創建時期は定かではないが、一般的に伊勢神宮の御厨が設けられた際には伊勢神宮から天照皇大神を勧請して祀る事が多い事から、仁科神明宮もまた仁科御厨が成立したとされる平安時代後期の永承3年(1048年)頃、その鎮護の為に勧請されたと考えられている。創建より長らく、安曇野の豪族である仁科氏によって神事が執り行われてきたが、戦国時代の天正10年(1582年)に仁科盛信(にしなもりのぶ)が高遠城で果て、また武田氏が滅亡すると、それは新たに松本城主となった小笠原貞慶(おがさわらさだよし)に引き継がれ、またその後も松本藩主の庇護を受けて残っていく。明治以降も仁科六十六郷の総社として地域の人々の信奉を集め、現在にまで存続した。 かつて神社では、定期的に社殿を建て替える式年造替(しきねんぞうたい)が行われていた。仁科神明宮もまた創建以降、20年ごとに本殿の建て替えが行われていたが、松本藩の財政悪化に伴い、完全なる建て替えは寛永13年(1636年)を最後に中止され、以降は修繕によって式年造替に代えられた。なお、仁科神明宮における式年造替の歴史は、棟札によって正確に判明している。この棟札は、永和2年(1376年)から今に至るまでの間、一枚も欠ける事無く残されており、これはすなわち仁科神明宮では500年以上の間、一度も欠かす事無く式年造替が実施されていたという事である。これらの棟札は貴重な史料として、安政3年(1856年)分までの27枚が、重要文化財に指定されている。 仁科神明宮の社殿は、本殿の前に中門が構えられ、それら二棟を釣屋と呼ばれる廊下で連結した構成となっている。国宝には本殿と中門の二棟が指定されており、釣屋はその付属という扱いだ。屋根は、いずれも檜皮で葺かれている。中門は御門屋(みかどや)とも呼ばれ、前殿の役目も兼ねている。その様式は、門柱の前後に二本ずつの控柱を持つ、格の高い四脚門(よつあしもん)で、屋根は切妻造である。釣屋は中門と本堂に棟を渡し、両下造(りょうさげづくり)の屋根をかけたもので、本殿及び中門の付属という扱いだ。神明造の本殿は、桁行三間に梁間二間で、切妻屋根の平入(ひらいり;屋根の棟に平行な面である、平面に出入を持つ建物)、掘立柱の建物となっている。 神明造は弥生時代の高床式建造物にルーツを持つ神社建築で、出雲大社の大社造や、住吉大社の住吉造と共に、最も古い形式を留める神社建築の一つである。仁科神明宮の本殿は、全体的に直線的な意匠であり、屋根に乗る千木(ちぎ)は、妻面(側面)の破風(はふ)がそのまま伸びて突き出たものだ。千木の間には、鰹木(かつおぎ)が六個置かれている。なお、仁科神明宮の祭神は女性神である為、千木の先端は水平にカットされた内削(うちそぎ)となっている。同じく屋根の上に並ぶ鰹木が偶数なのも、祭神が女性神である事を示す。また、破風板の上部には、左右四本ずつの小さな突起が見受けられるが、これは鞭掛(むちかけ)と呼ばれ、神明造特有のものである。 なお、中門もまた本殿と同様に四本ずつの鞭掛が見られ、破風が突き出て千木となるのも同様で、屋根の上に乗る鰹木は本殿より二本少ない四本である。他にも、本殿の妻面には、棟を直接支える棟持柱(むなもちばしら)が壁の外側に独立して立っていたり、壁は素木の板壁であるなど、最古級の社殿様式である神明造らしく、全体的に古式然とした様相を呈している。しかしながら、本殿の四方に巡らされた縁の擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)や、中門の左右に見られる蟇股(かえるまた)などは、本来は仏教寺院の建築に見られるもので、その辺りには室町時代前後の様式が伺える。それでも、この仁科神明宮本殿は神明造の特徴を色濃く残しており、貴重な神社建築であると言える。 2011年04月訪問
【アクセス】
JR大糸線「安曇沓掛駅」より徒歩約30分。 【拝観情報】
境内自由。 ・住吉大社本殿(国宝建造物) ・出雲大社本殿(国宝建造物) Tweet |