―鑁阿寺本堂―
ばんなじほんどう
栃木県足利市 国宝 2013年指定 室町幕府を開き、征夷大将軍にまで登り詰めた足利尊氏(あしかがたかうじ)。その出自である足利氏の本貫(本拠地)は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)である。今もなお、足利市の中心部には足利氏の館跡が残されており、四方を濠と土塁で囲まれたその敷地には、真言宗大日派の本山である鑁阿寺(ばんなじ)の伽藍が構えられている。境内の中心に建つ本堂は、関東地方に数少ない鎌倉時代の建立であり、またその建築様式は日本古来の和様に加え、鎌倉時代の初期に大陸から伝来した禅宗様が組み込まれている。当時の最先端技術をいち早く採り入れ、定着させた折衷様建築の嚆矢として建築史的に極めて価値が高く、2013年に国宝の指定を受けた。 鑁阿寺が位置するかつての足利氏の居館は、12世紀中頃、足利氏の祖である源義国(みなもとのよしくに)によって築かれた。建久7年(1196年)、足利氏二代当主の足利義兼(あしかがよしかね)が館の敷地に持仏堂を建て、これが鑁阿寺のルーツであると言われている。その後の文暦元年(1234年)に三代当主の足利義氏(あしかがよしうじ)が寺院としての伽藍を整備し、以降は足利氏の氏寺として隆盛を極めた。戦国時代に入ると室町幕府の権威失墜と共に一時は衰退するものの、天正19年(1591年)に徳川家康の寄進を受けて再興。徳川氏の庇護を受け、江戸時代を通じて栄えたという。そのような歴史もあり、鑁阿寺の境内は「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定されている。 現在の鑁阿寺本堂は、義氏が整備した堂宇が弘安10年(1287年)の落雷によって損傷したのを受け、七代当主の足利貞氏(あしかがさだうじ)が正応5年(1292年)から正安元年(1299年)にかけて再建したものである。建立当初は瓦葺きではなく、また柱も細いものであったが、室町時代の応永14年(1407年)から永享4年(1432年)にかけて大々的な改修が行われ、その際に柱や小屋組を刷新して軸組の強化が図られ、本瓦葺きの屋根に改められた。正面に向拝が設けられたのもこの時である。その後は室町時代末期までに背面の向拝が付けられ、さらに江戸時代の元文期(1736年〜1741年)には正面向拝の改修が行われるなど、度々の改修と修理が重ねられ現在の姿となった。 本堂の規模は桁行五間に梁間五間、屋根は入母屋造で、軒は二軒の繁垂木である。正面の向拝は三間幅で軒唐破風付き。柱間装置は正面の中央三間、および背面の中央一間、両側面の中央手前より二間が禅宗様の桟唐戸であり、正面両端は和様の連子窓、それ以外は禅宗様の縦板張である。内部平面は方五間の密教本堂の様式であり、手前よりの桁行五間梁間二間を外陣とし、後ろよりの桁行三間梁間三間を内陣、内陣の両脇一間を脇陣とする。内陣の中央後ろよりには元禄期(1688年〜1704年)の厨子を安置し、大日如来を祀る。内陣と外陣の間には吹寄菱格子欄間を入れて聖と俗を仕切っている。床は拭板敷、天井は格子を組んだ組入天井と、いずれも和様の様式だ。 一方、柱は上下が丸くすぼんだ禅宗様の粽柱(ちまきばしら)であり、その上には水平材の台輪(だいわ)が乗り、組物も柱の上のみならず柱間にまで密に配された詰組(つめぐみ)であるなど、禅宗様の要素が随所に組み込まれている。このように、鑁阿寺の本堂では新たに伝来した禅宗様をそのまま模倣するのではなく、禅宗様の要素を選択的に採り入れており、それにより調和の取れた和様と禅宗様の融合を果たしている。その後の日本建築に多大な影響を与えた折衷様のはしりとして貴重な建築と言えよう。なお、現在の本堂を構成する部材は、その大部分が応永・永享の大修理の際に取り換えられたものであるが、組物と台輪の一部には建立当初である正安期のものが残されている。 鑁阿寺のすぐ側には、中世から近世にかけて学徒を集めた足利学校が存在する。その創建は諸説あり、平安時代初期の天長9年(832年)に公卿の小野篁(おののたかむら)が開いたという説、鎌倉時代初期に鑁阿寺のルーツを築いた足利義兼が開いたという説、室町時代中期の永享11年(1439年)に関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)が開いたという説など様々だ。足利学校では儒学を始め、易学、兵学、医学など各種学問を教えており、宣教師フランシスコ・ザビエルは足利学校の事を「日本最大にして最も有名な学校」と評していた。明治時代にその役目を終えたものの、現在も「学校さま」と称され、「大日さま」と呼ばれる鑁阿寺と共に、足利のシンボルとして市民に親しまれている。 2008年11月訪問
2013年09月再訪問
【アクセス】
JR両毛線「足利駅」より徒歩約10分。 【拝観情報】
境内自由。 ・孝恩寺観音堂(国宝建造物) Tweet |