―青井阿蘇神社―
あおいあそじんじゃ
国宝 2008年指定 熊本県人吉市 熊本県南部、激流として知られる球磨川(くまがわ)中流域に広がる人吉盆地は、日向、薩摩、佐敷(現在の熊本県芦北町)を結ぶ交通の要衝、球磨地方の中心地として機能してきた。人吉盆地の西部に鎮座する阿蘇青井神社は、古くより開拓・農業の神として信仰を集めた古社である。境内に連なる茅葺と銅板葺の社殿は、江戸時代初頭にまとめて造成されたもので、統一感のあるたたずまいを見せる。建築としての完成度も高く、中世からの流れを汲みつつ桃山様式の装飾を採り入れている。それらの社殿は球磨地方を代表するものであり、また広く南九州一帯にも影響を与えたことから、境内の中核を成す「本殿」「廊(ろう)」「幣殿」「拝殿」「楼門」の5棟が国宝に指定されている。 青井阿蘇神社の創建は大同元年(806年)の重陽(9月9日)、肥後国一宮の阿蘇神社に祀られている祭神十二柱のうち、神武天皇の孫であり阿蘇を開拓したとされる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃である阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、および二人の子である国造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の三柱を勧請したことに始まるという。鎌倉時代初頭の建久9年(1198年)には相良長頼(さがらながより)が地頭として人吉に移り、同氏の氏神として青井阿蘇神社を再興した。相良氏は乱世をうまく立ち回り、明治維新に至るまで領地替えなどされることなく人吉の領主としてあり続けた。青井阿蘇神社もまた相良氏や民衆の崇敬の元、現在まで存続していった。 現在の青井阿蘇神社の社殿が建てられたのは江戸時代の初期、人吉藩の初代藩主相良頼房(さがらよりふさ)と筆頭家老であった相良清兵衛(さがらせいべえ)の発起により、慶長15年(1610年)から慶長18年(1613年)にかけて整備されたものだ。境内の入口には楼門を構え、その奥に拝殿、幣殿、本殿が連続して続き、幣殿と本殿は廊によって連結されている。また門前には蓮池を設け、社殿の周囲には末社が配され、幹周り18メートル、樹高19メートルの大楠が聳えているなど、歴史ある境内の景観を今に残している。また境内の西隣には、創建時から大正14年(1925年)に至るまで代々大宮司を世襲していた青井氏の旧邸が存在し、現在は文化苑として一般に公開されている。 本殿は三間社の流造である。屋根は銅板葺で、軒は二軒の繁垂木。身舎は円柱を立てて長押で固め、組物は二手先とし、中備には蟇股を置く。庇は角柱を虹梁で繋ぎ、組物は三斗組だ。妻飾は虹梁大瓶束であり、大瓶束には藤の透かし彫りが施され、笈形には雲紋、妻壁板には雲龍が彫られている。側面と背面には×型の桟が入れられ、長押上の小壁には赤や緑で塗られた格狭間を設けるなど、球磨地方の寺社ならではの特徴が見られる。内部は一室で、後方の祭壇中央に阿蘇三神を祀る。本殿と幣殿を繋ぐ廊は、桁行一間、梁間一間、切妻造の銅板葺である。柱の持送りに阿吽の形相をした一対の龍の彫刻が施されており、これは南九州の近世寺社建築に影響を与えたとされる。 幣殿の規模は桁行五間、梁間三間。屋根は寄棟造の茅葺、軒は一軒の疎垂木で、軸部は角柱を立てて長押を廻す。長押上の小壁には動植物の彫刻が施されているが、それらの画題は柱を越えて連続しており、また錺(かざり)金具は露を表現しているなど、当時の最先端の技法を随所に採り入れている。拝殿の規模は桁行七間、梁間三間。正面に唐破風つきの向拝を備える。屋根は寄棟造の茅葺、軒は出桁造で、軸部は角柱を長押と貫で固めている。平面は前方の一間を吹き放しとし、後方二間のうち西側の三間は床の高い「神楽殿」とし、東側の八畳を「神供所」とする。毎年旧暦の9月9日に行われる「おくんち祭」では、この神楽殿を舞台として球磨神楽が演じられるのだ。 三間一戸の楼門は、禅宗様に桃山様式を採り入れたものだ。屋根は寄棟造の茅葺、棟上には千木を置いている。軒は二軒繁垂木、軸部は円柱を立て、地覆、貫、台輪で固めている。腰組は二手先で、長押上の琵琶坂に施された透かし彫りは「二十四孝物語」など大陸の影響が見られるものだ。二階の組物は尾垂木付きの三手先で、四隅には鬼面を挟んでいるが、これは全国にも他に類がなく「人吉様式」と呼ばれている。一階の天井は鏡天井であり、色彩の剥落が見られるものの二体の龍が描かれている。また二階の正面には扁額が掲げられているが、これは人吉藩第三代藩主の相良頼喬(さがらよりたか)が延宝5年(1677年)に奉納したものであり、林春常の裏書が残るという。 2014年10月訪問
【アクセス】
JR肥薩線「人吉駅」から徒歩約10分。 【拝観情報】
境内自由。 Tweet |