窓にかかるカーテンを開けたら青空が見えた。穏やかな日差しに目を細める。久方ぶりの晴れ模様。素晴らしき遍路日和である。 早速出発したいところであるが、宿を取った時にはチェックアウト時間ギリギリまで粘りたくなるのがぐうたら遍路の常である。iPhoneの充電もまだ完了していないことだし、もう少し引き延ばすことにしよう。時計を見るとちょうど9時を回ったところなので、とりあえず郵便局へと赴き昨日買い込んだ芋ケンピを不用品と共に自宅へ送ることにした。 残念ながら出発と同時に雲が出てきてしまったが、まぁ、昨日までの雨降りと比べたら天国のようなものである。体に残る疲れもなく、足取り軽く住宅街を進む。 緩やかな坂道を少しだけ上った微高地に位置する宿毛貝塚は、縄文時代中期(約4000年前)から後期(3000年前)にかけての貝塚遺跡とのことである。現在は住宅街の中の原っぱというような見た目であるが、その地中からは土器や石器、獣や魚の骨、貝類、人骨も発見されており、国の史跡に指定されている。 この地に貝塚が存在することは昔から知られていたらしく『長宗我部地検帳』にもその存在が記されている。明治時代後期には高知県の郷土史家である寺石正路(てらいしまさみち)によって紹介され、全国的にその名が知られるようになった。貝塚は主に西貝塚と東貝塚の二箇所に分布しているが、公園として整備されているのはそのうち西貝塚だけで東貝塚は現在も私有地だ。また遺跡は貝塚だけで住居跡は発見されておらず、周囲に存在するのではと推測されているが、住宅街の中だけに発掘調査の進捗は芳しくないようである。 まぁ、裏を返せば縄文時代の集落跡に現在も人が住み続けているということで、それだけ住むのに適した場所であるといえなくもない。もっとも、縄文時代と現在では気候や環境が全く異なるワケで、一概に比較するのはナンセンスではあるが。そんなどうでも良いことを考えつつ先へと進む。 宿毛からの遍路道は旧宿毛街道を行く。そのルートは願成寺山中腹の等高線をなぞるように続いており、一度上ってしまえばアップダウンは多くない。道幅が広くてあまり古道という感じではないが、だがこの道が間違いなく昔から人々が歩いてきた遍路道であることは、この並び立つ遍路墓の存在が証明している。おそらくこれらの遍路墓は、かつては道沿いのあちらこちらに散在していたのだろう。車が通れるように道幅を拡張した際に、この場所にまとめたのだと思う。 この辺りの区間は山道と谷間の集落が交互に続いている。しかし山道とはいっても所々に果樹畑やため池が存在するなど、人々の営みが感じられる里山といった雰囲気だ。地形もなだらかで足腰への負担は少なく、ウォーミングアップにピッタリというものである。 なにせこの先に待ち構えているのは、土佐から伊予へと抜ける国境越えの「松尾峠」なのだ。昨日は丸一日休んでいたこともあるし、今のうちに足を慣らしておかなければ。 小深浦では牛が飼育されており、通りかかると愛想よく首を伸ばしてきた。柵の前に置かれた看板には「土佐の褐牛(あかうし) モーすぐ伊予やけん ことおたら ちぃと 休まんかね」と書かれている。少し休んでいけという意味だろうが、さすがにまだ歩き始めたばかりであるし、牛に別れを告げて先を急ぐことにした。 大深浦は今でこそ何の変哲もない谷間の小集落ではあるものの、かつての国境である松尾峠の麓に位置することから、戦国末期の長宗我部の時代より番所が置かれていた。江戸時代の四国遍路も、土佐への出入りは東端の甲浦と西端の松尾峠だけに限られていたという。江戸時代後期にあたる享和元年(1801年)の記録によると、この松尾の番所では、毎日200人、多い日には300人の旅人が通過していたそうだ。 かつては宿毛街道の要衝であったこの集落も、現在は静かな農山村だ。しかしながら住民たちは今もなおこの道を歩く遍路を温かく受け入れているらしく、集落の奥に鎮座する子安地蔵堂は通夜堂として利用可とのことである。 松尾峠の遍路道は、登り始めこそ車の轍が残る農道というような雰囲気であるが、途中の文旦畑を越えるとそこからは急激に道幅が狭まり、まさに古道というような風情の登山道となった。 なんでもかつてこの道沿いには松並木が存在していたらしいが、第二次世界大戦中に船の用材にするべく伐採されてしまったらしい。残った切り株も松根油の原料になるため掘り返され、今ではその堀り痕が道沿いに点々と連なっている。 山道はなかなかに険しくハードであるが、途中には石垣や石畳が残るなど、主要街道であった頃の面影を残している。道はよく踏み締められていて歩きやすく、意外にもすいすいと登れてしまった。登り口から歩くこと40分で標高300mの松尾峠に到着である。時間は12時少し前。ちょうど良く眺めの良い位置にベンチがあったので昼食休憩とした。 この松尾峠には平安時代に伊予国に土着して瀬戸内海に勢力を誇った藤原純友(ふじわらのすみとも)の城があったという。純友は関東の平将門(たいらのまさかど)と同時期に承平天慶の乱を起こしたものの、天慶2年(939年)の博多湾の戦いで敗北。伊予から九州へ逃げる際に妻と父をこの松尾峠の城に隠した。その後、純友と子が討たれたことを聞いた妻は、悲しみのあまりに発狂し、この地にて亡くなったそうだ。 古代にまで遡る歴史を持ち、その後も幡多と南予を結ぶ動脈として数多くの人が往来した松尾峠。昭和初期までは地蔵堂や茶屋など複数の建物が存在したというが、昭和4年(1929年)に宿毛隧道が開通したことにより、峠を通る人の数は激減。往時の建物も失われ、今では跡として残るだけだ。 現在唯一松尾峠に建っている大師堂は、有志によって平成13年(2001年)に再建されたものだという。通夜堂として宿泊もできるようだが、残念ながら水などの利便があまりよろしくないので子安地蔵堂の方が良いだろう。とりあえずお堂の前で手を合わせてから歩行を再開する。 遍路11日目に高知県へ突入してから約20日、「修行の道場」こと高知県もついにここで終了だ。その道のりはまさに修行というべき長く険しいものであった。次に待ち受ける愛媛県は、四国遍路では「菩提の道場」とされている。発心から始まった私の遍路も、修行を経て菩提へ。新たなフェーズに突入だ。 それにしても、古道を歩いて越える県境は新鮮で気分が良い。車道で越えるよりも遥かに達成感があり、また遍路の節目として文字通り峠を越えたことを実感できる。これぞまさに歩き遍路の醍醐味といえるだろう。私は感無量の充実感を味わいながら、下り坂へと歩みを進める。 自然石で築かれた古墳の玄室ような祠も気になるが、それよりも目を引くのが隣に並ぶ三本の石柱である。そのうち右のものは「くわんじざいじへ三り」と刻まれており、次なる札所である観自在寺への方向を指し示す道標だ。元は松尾峠の登り口に立っていたというが、道路拡張かなにかによって現在地に移設されたのだろう。ちなみにこの道標を築いたのは、寛政6年(1794年)から文化4年(1807年)にかけて遍路道に数多くの丁石を立てたことで知られる武田徳右衛門(たけだとくえもん)という人物だ。江戸時代にまで遡る貴重な道標のひとつである。 中央と左の石柱はいずれも「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれており、国境を示す結界石であることが分かる。中央のものは貞享4年(1687年)、左のものは天保5年(1834年)に築かれたと考えられており、先ほど松尾峠に立っていたものは明治初頭、版籍奉還後から廃藩置県までの間に築かれたと推測されている。また中央のものは明治13年(1880年)に遍路道の道標として再利用されているが、しかしどちらもその後に破棄されたのか、平成3年(1991年)に橋桁として使用されているのが発見された。いずれも二つに折られた状態であったといい、修復されたのちにこの場所に立てられたそうだ。 国境を越えた最初の集落であるこの小山には、かつて伊予側の番所である「小山番所」が存在した。その位置はこれらの石柱のすぐ側であり、かつて番所で使われいた井戸も現存する。なるほど、確かに役目を終えた結界石を安置する場所として最適だろう。できれば松尾峠に戻してあげたいところでもあるが、現在だと大変な費用が掛かることだろうし、あまり現実的ではない。昔はよくもまぁ、このような重い石柱を人力で上げ下げしたものである。 この松尾大師は、松尾峠にあった大師堂を移したものだという。宿毛隧道の開通に伴い遷座したのだろうが、その後に建物が失われたのか長らく石碑が置かれただけの状態が続いていたようだ。平成21年(2009年)にようやく現在のお堂が再建されたそうだが、よくよく考えると松尾峠にも大師堂が再建されているので、松尾大師が二つ存在することになる。……まぁ、里のお堂と山のお堂ということで棲み分ければ良いだけか。 松尾大師から緩やかな坂を下ると十文字という町に出た。宿毛を出て以来のそこそこ大きな市街地である。町並みも板張りの家が多くなかなかレトロな感じだ。気分良く歩いていると、その中心部で思わぬ顔ぶれに遭遇した。 最後に会ったのは土佐久礼なので、実に9日ぶりの再会である。私は歩くのが遅く、また宿毛に連泊していたこともあり、てっきりもうずっと先にいると思っていたのだが……と、たしか久礼で会った時も同じように考えた気がする。 私が風景の写真を撮りながら歩いていくと、彼らはあっという間に道の先へと消えてく。これだけ歩行速度に差があるのにも関わらず、全体的な進行速度は私とトントンなのはどういうことか。おそらく彼らは観光などにも時間を割き、また雨が強い時などには無理をせずに休息日としているのだろう。雨風構わずひたすら歩く修行の遍路とはまた違う、遍路を最大限に楽しむ歩き方である。 一本松の市街地を抜け、国道56号線を渡って畑の中の道を進む。道標に従い歩いていくと、「札掛」という集落に差し掛かった。この場所には篠山観世音寺(現在の篠山神社)へと通じる一の鳥居が立っている。月山神社の時にも述べた通り、かつて遍路は月山か篠山のどちらかに参拝するという不文律があった。しかし篠山詣でを果たせなかった遍路がこの場所に札を掛け、篠山を遥拝したことから札掛という地名になったそうだ。 私は月山神社を経由してきたので篠山に参るつもりはなかったのだが、こうして遥拝所を横切ると篠山までも歩いてみたくなるものだから困ったものだ。次にまた四国遍路を歩く際には、今度は篠山を経由することにしよう。そう心の中で誓いつつ、私は引き続き宿毛街道を西へと進む。 砂利やコンクリートで舗装された坂道を下っていくと、やがて木々に覆われた平坦な路地となった。小川に架かる苔むした古めかしい橋を渡ると、視界が開けて畑の中の道に出た。 この上大道は丘陵上の開けた土地に位置しており、広々とした畑を通る路地に沿って家屋が散在している。昼下がりの陽気に眠気を誘われながら歩いていくと、ふと神社の隣に真新しい東屋が設けられていた。 地元の人がお金を出して築き、維持管理をしているのだろう。トイレと水道が完備されているのはもちろんのこと、蚊取り線香や物干しロープまで用意されている。毎日掃除をしているのだろう、トイレはピカピカで全く臭わない。手拭きのタオルも清潔だ。さらには「歩き遍路をされていてここでお泊りの方へ」と題した張り紙が掲示されており、「寒い時は障害者用トイレで寝てください」とまで書いてあるではないか。ゲストブックの書き込みはすべて返事が添えられており、管理者さんの並々ならぬ努力とホスピタリティが感じられる。これまでの遍路道で様々な休憩所や遍路小屋を見てきたが、これほど設備と心遣いが整った休憩所は他にない。文句なしに最上級の野宿ポイントである。 今が夕暮れならばぜひともこの休憩所のお世話になりたかったところだが、残念ながらまだ15時半。もう少し歩くことができる時間であるし、それに実をいうと今日はあらかじめ宿泊地のアテを付けてきたのだ。この他に類を見ない休憩所の管理者さんに敬服を表しつつ、上大道の集落を後にする。 豊田は宿毛街道沿いの小さな集落ではあるものの、町家が高密度で連なっておりなかなか絵になる光景だ。夕暮れが近づきつつあるので少し急がなければならないのだが、この集落が醸し出す懐かしい雰囲気に少々足を止められた。 集落の出口には遍路小屋が設けられており、宿毛以降の休憩所の多さに改めて驚かされた。お接待という文化を具現化した存在ともいえる遍路小屋。それだけ、この地域の人々の遍路に対する思いやり、おもてなしの心が強いということなのだろう。ありがたいことである。 時間は16時40分を過ぎており、私は大急ぎでお参りを済ませる。納経所が閉まるギリギリに朱印を受け取った私は、窓口のお坊さんに「通夜堂を一晩お借りすることはできますか?」とたずねてみた。そう、今日私がアテにしていた宿泊地とは、このお寺の通夜堂なのだ。 案内された通夜堂には先客がおり、一人は学生のような若いおにいさん、そしてもう一人は白髪で浅黒のおじいさんであった。特におじいさんはもう何度も歩き遍路をやっているような玄人らしく、使い込まれた感のある黒光りの菅笠が威厳を放っていた。 また若いお兄さんは自炊の装備を持っており、キャンプ用のガスストーブで野菜ラーメンを作っていた。私はスーパーで買った出来合いの弁当を食べつつ、湯気の立つラーメンをすするお兄さんを見て、自炊も良いものだなと思った。 それにしても、他の人と一緒に寝るのは遍路3日目に泊まった鴨の湯の善根宿以来である。赤の他人と一つの部屋で寝るのは少々気を遣うものの、遍路という共通言語があるので話のネタが尽きることはない。とても楽しい時間を過ごしたのちにそれぞれの寝袋に横たわり、三人で川の字になって消灯と相成った。 Tweet |