昨夜は屋根付きの野外ステージという野宿の為に存在するかのような場所にテントを張ったものの、明け方まで度々スコールのような激しい雨が降ったのでその都度目を覚まし、またどこからともなくにゃぁにゃぁと猫の悲しそうな鳴き声が聞こえてきたりして、気になってあまり熟睡することができなかった。眠気を押しての起床である。 まだ熟睡中らしい隣のテントに気を遣いつつテントを撤収していると、ふとステージの隅で一人の女性が横になっていることに気が付いた。どうやらテントを使用しない、寝袋だけのガチな野宿遍路のようである。昨夜、私がテントに入った時には姿を見ていなかったので、その後に到着したのだろう。 荷物をまとめて高台のベンチに移動し、朝食を取ってから6時ジャストに出発だ。次なる第71番札所の弥谷寺は、もう目と鼻の先にある。 弥谷寺の堂宇は弥谷山の谷筋を登った中腹に位置している。その参道は山道のようなもので、朝一番にしてはなかなかハードな参拝だ。 弥谷山は古くより神仏が宿る山として信仰を集め、下北の恐山、臼杵の摩崖仏と共に日本三大霊場のひとつに数えられてきた。寺院としての歴史は奈良時代にまで遡り、聖武天皇の勅願によって行基が開山したとされる。事実、弥谷寺には天平年間の724年頃に作られた経典が残っているとのことで、少なくともそれ以前より存在していたらしい。 その後の大同2年(807年)に弘法大師空海が訪れた際、蔵王権現のお告げにより千手観音を本尊とし、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴を納めて伽藍を再興。また求聞持法を修めていたところ五本の剣が落ちてきたといい、それにより剣五山弥谷寺という現在の寺名に改められたという。 弥谷山と峰続きの天霧山には、国の史跡に指定されている天霧城跡が存在する。室町時代から戦国時代を通じて西讃岐を支配する香川氏の拠点となっていたものの、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で香川氏は改易となり天霧城は廃城。弥谷寺も兵火を被って荒廃したが、慶長5年(1600年)に高松藩主の生駒一正(いこままずまさ)によって復興された。その後の享保5年(1720年)にも焼失したものの、丸亀藩主の京極氏により再建されている。 それにしても、弥谷寺はなんていうか、物凄く雰囲気のある寺院である。木々が鬱蒼と茂る山の上、細い参道には大小の堂宇や石仏が連なっており、所々に剥き出しの巨岩が見られる。寺院というより霊場という言葉の方がふさわしい、実にミステリアスな趣きだ。この辺りの地域では、死者の魂は弥谷山に昇ると信じられてきたらしいが、それもまさに納得なたたずまいである。 この石窟は「獅子之岩屋」と名付けられており、空海が7歳から12歳の頃に勉学に励んでいた学問の聖地であるという。向かって右の洞窟は経蔵として使われていたそうで、「明星之窓」と呼ばれる穴から光を取り込み、写経や学問に打ち込んでいたそうだ。 読経を終えるとちょうど7時になったので、大師堂の内部に併設されている納経所で朝一番の朱印を頂く。石段を上ってくる参拝者とすれ違うように弥谷山を下り、山門を後にした。 うん、なかなか良い一日の滑り出しである。何せ今日はあの善通寺を中心に、その前後に連なる計7箇所の札所を周る、久々の札所密集区間なのである。次なる第72番札所の曼荼羅寺までは約3.5km。8時の到着を目標にボチボチ頑張ろう。 この弥谷寺からの遍路道は、江戸時代や明治時代の地図と比較してもほとんど変化のない正真正銘の古道である。丁石や石仏などの物証も多く、約0.9kmの範囲が『讃岐遍路道』の一部を成す「曼荼羅寺道」として平成26年(2014年)に国の史跡に指定されている。 未舗装ではあるものの、ほとんど平坦なので非常に歩きやすい道である。雨上がりなので一部がぬかるんでいたり、草木に付いている露によって靴やズボンを濡らされたりしたものの、青々とした竹が揺れる音が心地良く、とても爽やかな遍路道だ。ちょうど日が差してきたこともあり気分は最高潮だ。 久々に太陽が顔を見せてくれたのは嬉しいことだが、その分気温がぐんぐん上がり、汗だくになりながらの到着である。時間は8時10分を回ったところ。古道で写真撮影に時間を取っていた為、目標の時間をちょっとだけオーバーしてしまった。 寺伝によると、曼荼羅寺の創建は四国八十八箇所霊場で最も古い推古天皇4年(596年)。空海の祖先にあたる佐伯氏の氏寺として開かれたとされており、当初の寺名は世坂寺(よさかじ)であった。その後、唐から帰国した空海が再興。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を掲げて寺名を「我拝師山 曼荼羅寺」に改めたという。 物凄く古い由緒を持つお寺であるが、現在の曼荼羅寺は住宅地の中にあるごく普通の寺院といった印象だ。かつては樹齢1200年の「不老松」が枝を伸ばしてその歴史を物語っていたようだが、不老という名もむなしくマツクイムシの被害によって平成14年(2002年)に枯死してしまったという。あぁ、無常。 出釈迦寺とはまた凄い名前の寺院である。なんでも空海が7歳の時に山へと登り、「我もし仏の道を得て衆生済度の願満たば救い給へ、意願契はぬなれば命失うとも悔やまず(私は仏門に入って人々を救いたい。その願いが叶うなら救ってくれ。もし叶わないなら命を失っても悔やまない)」と言って断崖絶壁から身を投げたところ、紫色の雲が立ち篭めて釈迦如来と共に天女が現れ空海を抱きとめたという。 いやはや、7歳で身投げをして助かるとは、数ある空海伝説の中でも屈指の超絶エピソードである。何はともあれ無事将来を約束された空海は、釈迦如来が現れた山を「我拝師山(がはいしさん)」と名付け、その山上に出釈迦寺を創建した。……そう、かつての出釈迦寺は我拝師山の上に存在したのである。 17世紀の半ばになると麓にも寺院が築かれ、その後は山に登らなくても納経を行うことができるようになった。そして大正9年(1920年)には正式に麓の寺院が札所と定められ、現在の「我拝師山 出釈迦寺」が成立。山上の寺院は「捨身ヶ嶽禅定」として出釈迦寺の奥の院に位置付けられた。 先ほどの曼荼羅寺と同様、出釈迦寺もまた小ぢんまりとした感じの寺院だ。とりあえず参拝と納経を済ませ、これで次の札所に向かっても良かったのだが、折角なのでかつての札所であった我拝師山にも登ってみることにした。 岩場の入口には立札が掲げられ、「これより行場は当山の大霊域により飲食・危険行為は禁止です」と注意が記されている。飲食はともかく、危険行為とは一体何を指すのだろうか。というか、この急傾斜の岩肌を登ること自体、危険行為にあたるのではないだろうか。そんなことを思わせる岩壁に怯みつつ、吊るされている鎖を頼りに体全体を使って上がっていく。すると、5分程進んだ先の崖っぷちに護摩壇が設けられていた。 そこはまさしく断崖絶壁。足場も悪く、身を乗り出して写真を撮ろうとするだけで恐怖に足がすくむ。わずか7歳の子供がここからアイキャンフライしたとは、いやはや、伝説にも程があるといった感じの伝説である。 ちなみに護摩壇の先にも我拝師山の山頂に向かって登山道が続いているのだが、その先の様子を見て私は撤退することにした。 重いザックを背負っていてバランスが悪い上、山頂まであとどのくらいの距離があるのかも分からない。捨身ヶ嶽禅定に辿り着くまで思った以上の時間が掛かったこともあり、この辺りで引き返すのが無難だろう。 再び出釈迦寺に戻り、その境内に設けられている休憩所で一休みする。ふと壁に目をやると、「うたんぐら」と記された張り紙が掲げられていた。なんでも僅か1000円で宿泊できる善根宿とのことである。場所は宇多津町とまだ20km以上の距離があるので少し迷ったものの、この先に良さそうな野宿ポイントが見当たらなかったこともあり、張り紙に書かれていた電話番号に連絡を入れて宿泊をお願いすることにした。 これで早くも本日4箇所目の札所である。現在時刻は11時過ぎ、今日は宇多津町まで辿り着かねばならなくなったこともあり、必然的に第77番札所まで周ることになるのだが、まぁ、この調子ならば問題なく行けるだろう。 寺伝によると、壮年期の空海がこの地を通りがかった際、老人が現れて寺院を築くよう勧められた。この老人が毘沙門天の化身だと感得した空海は、毘沙門天像を刻んで甲山の岩窟に安置したという。 その後、嵯峨天皇に満濃池の築造を命じられた空海は、甲山の岩窟にて薬師如来を刻み、工事の完成を祈願した。すると方々より空海を慕って数万人の人々が集まり、わずか三ヶ月で満濃池は完成したという。その功績によって空海には朝廷より金二万銭が与えられ、その一部を充てて甲山寺を建立したという。 こうして実際に参拝してみると、やはり曼荼羅時や出釈迦寺と同様、至って普通のお寺といった感想である。いずれの寺院も境内はがっつり整備されており、綺麗すぎて長い歴史を感じさせられる要素が少ないのだ。というか、本日最初に訪れた弥谷寺があまりに濃すぎる雰囲気だったので、何を見ても霞んでしまっているのかもしれないが。 第58番札所の仙遊寺と同じ寺名であるが、特に関係があるわけではなく、かつては仙遊ヶ原地蔵堂と呼ばれていたという。空海が幼い頃、この地の泥土で塔や仏像などを形造って遊んでいたとのことで、その様子を見た人々により神童と敬われていたそうだ。 それにしても、少年期の空海が勉学に励んでいた弥谷寺に始まり、7歳で飛び降りた捨身ヶ嶽、そして幼児期に泥をこねて遊んでいた仙遊寺と、本日の遍路道沿いには空海の子供の頃のエピソードがやけに多い。それもそのはず、次に待ち構えている第75番札所は、空海の生誕の地である善通寺なのだ。 江戸時代中期の『多度郡屏風浦善通寺之記』によると、善通寺は唐から帰国した空海が大同2年(807年)から弘仁4年(813年)にかけて築いたとされる寺院である。その土地は空海の父親でありこの地の豪族でもあった佐伯田公(さえきのあたいたぎみ)から寄進を受け、父親の法名である「善通(よしみち)」から善通寺と名付けられた。伽藍配置は空海の師である恵果(けいか)が座していた長安の青龍寺を模したとされる。 鎌倉時代になると佐伯氏の邸宅跡に「誕生院」が築かれ、それぞれ個別の寺院として存続していったものの、明治時代になると善通寺に統合されて一つの寺院となった。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、和歌山の高野山、京都の東寺と共に弘法大師空海の三大霊場にも数えられている。四国八十八箇所霊場の中では最大規模の寺院だ。 善通寺の境内は金堂(本堂)を中心とする東院、および御影堂(大師堂)を中心とする旧誕生院の西院に分かれており、それぞれが大寺院に匹敵する寺域を有している。当然ながらその両方をお参りすることになるので、行き来が少々大変だ。遍路はもちろんのこと一般の参拝客も多く、まさに大寺院の貫録である。 伽藍は戦国時代に焼失しており、東院に現存する建物は江戸時代から明治時代にかけて築かれたものである。中でも金堂は元禄12年(1699年)の再建、五重塔は弘化2年(1845年)に二重部分が築かれて五重まで完成したのが明治35年(1902年)で、この二棟が国の重要文化財に指定されている。鐘楼や釈迦堂、南大門などは国登録の有形文化財だ。 西院に現存する建造物は大正時代から昭和初期にかけて整備されたもので、その多くが国登録の有形文化財となっている。東院は建物間に距離があって広々としているのに対し、西院は数多くの建造物が密集しているのが対照的だ。建造年は西院の方が新しいものの、いずれは群としてのまとまりが評価されて重要文化財になることだろう。 なお、空海生誕の地にして今もなお遍路を始めとする参拝者で賑わう善通寺境内は、四国遍路において重要な位置を占める札所寺院であることから、平成29年(2017年)には『讃岐遍路道』の一部として東院と西院、それらを結ぶ参道、および境内の西隣に聳える香色山が一括して国の史跡に指定されている。 金堂と御影堂の両方でお参りを済ませ、納経所で朱印を頂く。広大な寺院で数多くの写真を撮っていたこともあり、境内を出た時には既に13時を回っていた。先程から腹がぐぅぐぅと昼食を要求していることもあり、うどん屋を探しながら遍路道を進んでいく。 やけにキレイに整備された石仏であるが、「赤門七仏薬師」と言うらしい。別名「乳薬師」とも呼ばれ、お参りをすると母乳の出が良くなるとのこと。だが今の私には乳よりもうどんである。この商店街ならうどん屋の一軒や二軒ありそうなものかと思ったが、結局本郷通りにうどん屋は見当たらず、私は空腹を抱えたまま歩き続けることとなった。 初日に食べたはなまるうどんもセルフ式であったが、うどんを茹でるのは店員で、どんぶりを受け取ってトッピングは自分で、というものであった。ところがここはうどんを茹でるところからセルフ。自分でうどんを茹でてダシを注ぐのは初めての体験で、何とも新鮮な昼食となった。 ここもまた、弥谷寺や善通寺と比べるとごく普通の寺院であるが、その境内は空海の甥であり天台宗寺門派の開祖でもある智証大師こと円珍の生誕地とされる。寺院としての歴史は宝亀5年(774年)、円珍の祖父である和気道善(わけのどうぜん)が「自在王堂」を建立したことに始まるという。その後の仁寿元年(851年)に開基の名より「道善寺」と改められ、また延長6年(928年)には唐から帰国した円珍が長安の青龍寺を模した伽藍を整備し、金倉郷という地名より現在の「金倉寺」に改められた。 円珍もまた空海に負けずとも劣らない伝説的な人物で、沢山の書跡を残しており国宝に指定されているものも数多い。金倉寺を整備した後は近江の三井寺(園城寺)を再興しており、以降、三井寺は天台宗寺門派の総本山として発展していくことになる。 金倉寺と同様、道隆寺もまた住宅街の中にある小ぢんまりとした印象の寺院である。かつてこの辺りは桑園が広がっていたといい、和銅5年(712年)にこの地を治めていた和気道隆(わけのみちたか、金倉寺の開基である和気道善の弟)が夜な夜な怪しげな光を放つ桑の木があったのでその方向に矢を射ると、誤って乳母に当たり殺してしまった。それを悲しんだ道隆が桑の木を切り、薬師如来像を刻んで堂宇を建てたのが始まりであるという。 その後の大同2年(807年)、道隆の子である和気朝祐(わけのちょうゆう)が唐から帰国した空海に頼んで薬師如来像を刻んでもらい、その胎内に父の薬師如来像を納めて本尊とした。また朝祐は空海から受戒を受けて第2世住職となり、七堂伽藍を整備して父の名より「道隆寺」と改めた。その後の第3世住職は空海の実弟である真雅(しんが)、第4世住職は円珍と名立たる高僧が務め、第5世の聖宝の時には多大なる繁栄を極めたという。その後、貞元元年(976年)の讃岐大地震や度々の兵火により興亡を繰り返しながらも現在まで存続してきた。 さてはて、この道隆寺で本日7箇所目の札所である。これで善通寺周辺の札所ラッシュは終わり、本日の目標も無事クリアだ。あとは宇多津町の善根宿に向かうだけなのだが、その前にひとつ寄り道をしたいと思う。道隆寺から西に1.5kmほど行ったところにある、多度津の町並み見学だ。 “津”という名が付く通り、多度津は古代より港が置かれていた交通の要衝である。江戸時代には北前船の寄港地として多大に発展し、廻船問屋や讃岐三白(讃岐の特産品である塩、砂糖、綿花)などの各種問屋が軒を連ねていた。また多度津の南に位置する金刀比羅宮への参拝が全国的に流行していたことから、多度津港から金毘羅宮に至る街道沿いには参拝客を対象にした旅籠や商家が並んでいたという。多度津港から四国に上陸し、遍路を始める人も少なくなかったようだ。 もう夕方なので足早の散策になってしまったが、見どころはおおむね押さえることができた。満足して道隆寺に戻り、ザックを回収すると時間は既に17時半。急がなくては。 宇多津町まではまだ約7kmとかなりの距離があるので、もうひと頑張りしなければならない。到着がかなり遅くなってしまいそうで申し訳ないが、せめて先方の迷惑にならない為にも19時までには着きたいものだ。 実はこの宇多津町は、第78番札所である郷照寺のお膝元でもある。だが当然ながらとっくに閉まっている時間なので、参拝は明日の朝に繰り越しだ。 本日お世話になる善根宿「うたんぐら」さんは、1000円でベッドとシャワーと洗濯機を使用できる、野宿遍路にとって非常にありがたい存在だ。ドミトリーではあるものの部屋が男女別に分かれているので、女性の単独遍路でも快適だろう。何より、運営されているご夫婦が暖かく迎えて下さり、またお話も非常に面白い。宇多津まで頑張って歩いた甲斐があったというものである。 この日は私の他に、一人の女性遍路がこの善根宿に宿泊していた。どこかで見た風貌だと思いきや、そうだ、今朝方道の駅の野外ステージで見かけた、テントを使わない野宿遍路ではないか。市街地が続く香川県は野宿スポットが少ないこともあり、こうして同じ方とご一緒する機会が増えるようである。 Tweet |