巡礼37日目:パンプローナ〜プエンテ・ラ・レイナ(24.0km)






 スペインに入ってからというものの、毎日が晴天である。今日もまたそうだ。フランスのバスク地方では雨に散々苦しめられたと言うのに、同じバスクでもスペインだとこれほどまでに違うのか。ピレネーの山々で生まれた雲は、南でなく北へ流れるものなのだろうか。もちろん晴れなのは嬉しいが、反面、これだけ続くと何だか怖くなる。


朝8時、パンプローナの旧市街を歩く


町の南側には星型要塞が残っていた

 旧市街のバルで昼食用のバケットを購入し(バルはパンや雑貨も売ってるのだ)、そのまま市街地を抜ける。パンプローナ市街地の南側には大きな公園が広がっており、そこにはナバーラ王国を併合したカスティーリャ王国によって16世紀後半に築かれた星形要塞が現存する。サンティアゴ巡礼路は、その要塞を横切るように南へと続いていた。


ビルが建ち並ぶ新市街を抜け、パンプローナを出る


ナバーラ大学でスタンプを貰えるらしい

 パンプローナの出口にあたるナバーラ大学の前には、受付に来てくれれば巡礼手帳にスタンプを押しますよ、という趣旨の看板が多言語表示で出ていた。ほぉ、大学でスタンプを貰うというのも面白い。私は教員や学生と共に、大学の構内へと進んだ。

 所々に案内が出ていたのでそれに従い、立派な建物の本館へと入る。受付の警備員らしき男性に巡礼手帳を見せると、その場でスタンプを押して貰う事ができた。巡礼宿や観光案内所ばかりではなく、このような少し特殊な場所でスタンプを貰えるというのは、なかなか嬉しいものである。


これまた古そうな橋を渡って小川を越える


道路沿いを歩きシスール・メノール(Cizur Menor)へ


高台に建つ教会で少し休憩(ここもまた内部には入れない)

 パンプローナから出て鉄道と高速道路の高架を渡り坂を上る。宿を出てから一時間程で、シスール・メノールという町に着いた。

 町の手前から見えていた教会が雰囲気良さそうだったので立ち寄ってみたのだが、その扉は当然のごとく鍵が掛けられいて、内部を拝観する事は叶わなかった。ロマネスク様式が基調の古そうな教会なだけに、残念である。むぅ、なんでスペインの教会はどこも開いておらんのだ。


この建造物はなんだろう

 シスール・メノールの通りを進んで行くと、その左手に奇妙な物体が見えた。半地下に石造りで作られた、三角柱を倒したような形の建造物である。入口の鉄格子から中を覗くと、暗い中で水が光っているのが見えた。おそらく、貯水施設か井戸なのだろう。

 その建造物向かいの公園を抜けて町を出た直後、昨日の麦畑で見かけたフランス人の親子が私を追い越した。あの杖を持ったお姉さんと母親の二人である。今日もまた、麦畑の中での再会であった。


麦畑を行く杖お姉さんの親子


ペルドンの丘に向かって道が伸びる

 眩しいほどに白い巡礼路の先には、なだらかではあるがやや高い丘陵がそびえていた。この山はペルドンの丘(Alto del Perdon)であり、巡礼路はこの丘を越えて向こう側へ伸びている。これを越える事こそが、まさに今日のヤマなのである。

 麦畑の中をてくてく進んでいると、向かいから上半身裸のおじさんが歩いてきた。ポッコリ出たお腹を隠さず、あくまでも堂々と歩くそのおじさんの姿に、私は思わず思考を止めて目で追いかける。おそらく、この近くに住んでいる人で、散歩中なのだろう。

 昼に近づくにつれ太陽の光は強まり、木陰の無いこの道はかなり暑さを感じるが……いやはや、凄いものである。でも、まぁ、ああやって平然とシャツを着ずに歩いているという事は、裏を返せばスペインでは上半身裸で出歩いても特に問題は無いという事か。


麦畑の向こうに、朽ちた城のような建物が見えた

 半裸おじさんを見送った後しばらく歩くと、ポプラの綿毛が舞うちょっとした森に入った。その森を抜けるといよいよ巡礼路はペルドンの丘を上る坂道となり、その右手には城のような大きな建物が見えた。天井が抜けているようなので廃墟だと思うが、なかなか立派な建造物である。

 坂道の途中うには木陰に置かれたベンチがあり、ちょっとした休憩所のようになっていた。そこでは何人かの巡礼者が休んでいたのだが、その中には例のノルウェー人男性の姿もあった。私もまた足を止め、彼に挨拶する。

 その休憩所は非常に眺めが良く、パンプローナやその周辺一帯が一望にできた。私は今しがた目にした廃墟を指差し、「あれは城ですか?」とノルウェー人男性に聞いてみる。男性は少し悩んだ後、隣にいたスペイン人の巡礼者に「カスティーヨ?」と尋ねた。どうやら、スペイン語で城は「カスティーヨ(Castillo)」と言うらしい。ちなみに、その問いの答えは「シー(Si)」、YESであった。


程無くして、村が見えた


このサリキエギ(Zariquiegui)で昼食にする

 ペルドンの丘の中腹にあるサリキエギも先程の休憩所と同様に眺めが良く、村の入口にはテーブルや仮設トイレが置かれていて休憩に最適だ。規模は小さいが雑貨屋もあり、私は店のおばちゃんに「セルベッサ!」と言ってビールを買い求めた。上り坂が続き、だいぶくたびれた所でのガソリン補給である。時間は正午少し前、ついでに昼食を取る事にした。

 バケットとチーズ、それとサラミをビールで流し込んだ後、私は再び上り坂を歩き出す。正午を回ってますます暑くなってきているが、まぁ、峠はもう少しである。目の前に見える丘の尾根沿いには、風力発電の風車が低い音を立てながら回っていた。


ペルドンの丘の尾根沿いは風車が並ぶ


峠に設置されている中世の巡礼者を模したオブジェ


丘の向こう側は広大な平野が広がっていた

 峠では数多くの巡礼者が芝生に座って昼食を取っていた。確かにここは眺めが抜群であり、ご飯を食べるにこれほどのロケーションは無いだろう。私は我慢できずにサリキエギで食べてしまったが、ここに来るまで待っても良かったかもしれない。……あ、ビールが温くなっちゃうからダメか。

 上りは山道にしては緩やかな方であったものの、下りはかなり急で、しかも石がごろごろのガレ場になっている部分もあり少し危ない。急いでしまうと足がガタガタになりそうだ。私は意図的にゆっくり歩き、できるだけ足に負担を掛けないようにした。


坂を下り切ってウテルガ(Uterga)に到着


麦畑にはポピーの花が咲き乱れていた


こちらはその先、ムルサバル(Muruzabal)の教会

 スペインには本当に教会が多い。どんな小さな集落であっても、その中心には必ず教会が存在する。しかも、文化財レベルに古いものも多い。それらスペインの教会をいくつか見てきて思った事は、武骨な印象の教会が多いという事だ。教会というより城塞なのではないかと思うような見た目の教会も少なくない。それは使われている石材の色が茶色い為か、あるいは外観に丸みが少なく角ばっている事が多い為かもしれない。白が基調で優雅な印象の教会が多かったフランスとは対照的だ。

 まぁ、スペインはイスラーム勢力による侵攻を受けたりと、度々戦争の舞台となってきた歴史を持つ国である。教会は村における信仰の拠点であると共に、村を防衛する軍事的な拠点として使われていたとしても、何ら不自然ではないだろう。


続いて辿り着いたオバノス(Obanos)の教会はとても立派


オバノスには庭で馬を飼っている家があった

 オバノスは村の規模の割に教会が大きく、ややアンバランスのように感じた。その教会の前には、これまた規模の大きな広場が広がっている。私はその隅に設置されていた自販機でコーラを買い、石段に座って休憩を取った。

 地図を確認すると、ここから少し先にプエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)という町があるようだ。そこそこ規模が大きく、アルベルゲやスーパーなどもありそうだ。よし、今日はこの町まで行くとしよう。


広場から門を潜って巡礼路を進む


坂を下って少し歩くと、プエンテ・ラ・レイナだ


町の入口にあるこの建物が公営アルベルゲであった

 私がプエンテ・ラ・レイナに到着したのはおよそ16時。宿入りには少し遅い時間なので、まだ空きがあるか心配だったが、ここもまたキャパシティは十分なようで、問題無くベッドを確保する事ができた。オスピタレオに5ユーロを支払い、巡礼手帳にスタンプを貰う。

 巡礼手帳に挟んで渡されたメモには、部屋の番号が記されていた。それでは早速ベッドルームに向かおうと踵を返すと、突然「コンニチハさん!」との声が。振り向くと、開け放たれたドア向こうの食堂に、スビリの宿で一緒になったシンさん姉妹の二人がいた。夕食の材料を仕入れてきた直後のようで、テーブルの上にはビニール袋が置かれていた。どうやら、今日も料理を作るようである。

 このお二人と少し会話した後ベッドルームへ行くと、そこにはなんと初日のピレネー山中でお会いしたハチマキさんご夫婦がいた。どうやらオスピタレオは日本人同士で同じ部屋にしてくれたようである。「おぉ、ご一緒の宿でしたか!」と私たちは再会を喜んだ。いやぁ、なんだかんだでみんな、行き着く先は同じである。


プエンテ・ラ・レイナのシンボル「王妃の橋」

 さて、シャワー&洗濯の後は町歩きだ。このプエンテ・ラ・レイナは、私が歩いてきた「フランス人の道」と、それより東のアラゴン州を通る「アラゴンの道」が合流する交通の要衝である。その町並みも歴史を感じさせる素晴らしいものであるが、この町の目玉は何と言っても「王妃の橋」だろう。

 「王妃の橋」はナバーラ国の王妃の命によって11世紀に架けられたロマネスク様式の橋である。橋の長さは110メートルに渡り、6連のアーチが織り成すその美しい姿は、建立当初よりほぼ変わらぬままであるという。この町の名前であるプエンテ・ラ・レイナとは、そのものずばり「王妃の橋」という意味なのだ。

 その前提知識を知らなかった私は、ぶらぶら町をうろつきながらこの橋に差し掛かり、突如目の前に現れた橋の規模と優美さに思わず笑ってしまった。特に対岸からの眺めが素晴らしく、町並みの美しさと相まって言葉にならない程である。私は「すげー」「すげー」と連呼しながら、動物園の熊のように橋の上を行ったり来たりしていた。


こちらは町の中心にあるサンティアゴ教会


12世紀に建てられたロマネスク様式で、玄関アーチの彫刻も見事だ

 王妃の橋からアルベルゲに戻ろうとサンティアゴ教会に差し掛かったその際、教会の扉が開いている事に気が付いた。あれ?行く時は閉まっていたはずなのにと近寄ってみると、そこにはホウキを持った地元の人らしきおばさんたちの姿があった。なるほど、掃除の時間なのか。

 私はここぞとばかりに中へ入ってみる。数人のおばさんが私を見たが、特に何も言わず掃除を続けていた。よし、これなら入っても問題ないという事だろう。やった、ついにスペインの教会内部が拝観できる。


教会内の祭壇は、眩いばかりに金ピカだった

 玄関から身廊に入った途端、私は思わず言葉を失った。教会最奥部の内陣には、天井に届かんばかりの主祭壇が据えられ、その両脇にあたる翼廊には主祭壇を守護するように脇祭壇が置かれている。いずれの祭壇も全体に彫刻が施され、金メッキで眩しく輝いていた。うぉ、なんだこれは。凄まじいくらいの派手さである。

 フランスの教会はもっとシンプルで、教壇の後ろに十字架が掲げられているだけの所が多かった。それらと比べると、こちらは祭壇の装飾が恐ろしいぐらいに違う。うーむ、これが「太陽の沈まぬ国」と呼ばれていたスペイン帝国の栄華なのか。

 私は祭壇の豪華さに驚くと同時に、なぜスペインの教会が揃いも揃って施錠されているのか、その理由を知る事ができた。そりゃそうだ、どの教会もこんな見事な祭壇を持っているのなら、防犯の為に鍵をかけておくのは当然だろう。特に昨今のスペインは経済危機により失業率が高いという。教会の物品が盗難の標的になる事もあり得る話だ。

 世知辛いスペインの現状を噛みしめながらアルベルゲに戻ると、食堂から再び声を掛けられた。シンさん姉妹の二人が、ご飯を作ったので四人で食べないかという。え、四人?とテーブルを見やると、そこには既に並べられた料理と共に一人の青年が座っていた。彼は私を見るや否や立ち上がり、気さくに自己紹介を始める。彼もまた韓国人で、名前は「キム」といった。キム……、キム……、おぉ、欧米人男性の噂になっていた、あのキムさんか!なんと、早くもお会いする事ができるとは。


シンさん姉妹、キムさんと共に夕食を頂く

 料理はシンさん姉妹が作ったサムゲタンとおかゆ、それとキムさんが買ってきていた生ハム、チーズをみんなで食べた。特にサムゲタンは本気なもので、柔らかく煮込まれた鶏肉が物凄くうまい。スーパーで売っていた鶏肉の塊を全部買ってきたそうで物凄い量があり、周囲の欧米人たちにも振舞って好評を博していた。いやはや、凄いものである。

 場を温めるお酒は、ワインに詳しいキムさんが選んだリオハ・ワインだ。リオハ(Rioja)とは、数日後に通過するログローニョ(Logrono)という町を中心とする地方の事で、リオハで造られるワインは非常に美味らしい。キムさんは「スパニッシュ・ワインと言えばリオハ・ワイン、リオハ・ワインといえばスパニッシュ・ワインなんだ」と力説していた。なるほど、今後はワインの名産地を歩く事になるのか。これは色々と楽しみである。

 その後も四人で談笑しながら食事を終え、私は食事のお礼に皿洗いをした。本来は一銭も出していない私だけでやるべきなのだが、途中からはキムさんが手伝ってくれて洗い物はすぐに終わった。……っていうか、キムさん、ちょっと良い人過ぎるだろう。話も面白いし、そりゃ巡礼者の間で話題になるワケである。

 ベッドルームに戻った私は、今度はハチマキさんご夫婦と会話である。このお二人は世界中のあちらこちらを旅行して回っているそうで、今回の巡礼を始めたのは普通の旅行に飽きたから、なのだそうだ。なんとも羨ましいお方である。その後も消灯まで会話は続き、この日はコミュニケーションに事欠かない、びっくりする程に充実した一日であった。