―栗林公園―
りつりんこうえん
香川県高松市 特別名勝 1953年指定 香川県高松市、その市街地にたたずむ標高190mの紫雲山は、尾根沿いから複数の古墳が発見されるなど、古くから人との関わりが深い山である。その紫雲山の東側には、江戸時代前期に作られた池泉回遊式の大名庭園、栗林公園が広がっている。紫雲山を借景として、数多くの池泉や築山を巧みに配した栗林公園は、松を始めとする植物や、建造などの人工物と相まって、幽玄たる美しさを作り出す。それはまさに日本を代表する庭園の一つと言うべきものであり、その作庭技術の高さから1953年に特別名勝に指定された。指定面積は約75ヘクタールにも及ぶ広大なものであり、これは特別名勝に指定された庭園の中で最も広いものである。 栗林公園の起源は、室町時代に讃岐を治めていた生駒氏の家臣、佐藤志摩介(さとうしまのすけ)が隠居したその後に、現在の栗林公園南西部に位置する小普陀の辺りに屋敷を構え、そこに仏教信仰の為の庭を作ったことが始まりであるとされる。とは言うものの、現在のような大規模な庭園となったのはさらに後の事だ。江戸時代に入り高松藩が成立すると、藩主にはそれまでの統治に引き続き生駒氏が就任した。時は流れ、高松藩四代藩主の生駒高俊(いこまたかとし)は下屋敷(別荘)を作るべく、寛永2(1625)年頃よりかつて佐藤志摩介が作った庭を拡張し、南湖一帯を新たに造営。そうしてできた庭園は、栗林荘と名付けられた。 しかしながら、生駒高俊は政治において全くの無能であり、その為家臣の間に主導権を巡っての争いが生じ、お家騒動にまで発展。生駒氏はその責任を取る形で改易となってしまう。その後、西讃には肥後富岡藩より山崎氏が入って丸亀藩が興り、また東讃には常陸国下館藩より松平氏が入って高松藩が再興した。松平氏は栗林荘の作庭をも引継いで拡張し、それは松平家高松藩五代藩主の松平頼恭(まつだいらよりたか)の代に至るまで続けられ、延享2(1745)年、ついに完成を見る。栗林荘の作庭に費やされた年数はおよそ100年、栗林荘はこうして今に見られる姿となった。なお、栗林荘が栗林公園に改められたのは明治6年、庭園の一般公開がなされたその時からである。 栗林公園は主に、開けた芝生や大きな池が広がる北庭と、変化に富んだ様々な地形を持つ南庭とに分かれており、庭園としての見所はそのうちの南庭に集中している。南庭には南湖や北湖などの池泉と、飛来峰や芙蓉峰などの築山が複雑に配されており、特に飛来峰から偃月橋や掬月亭(きくげつてい)を望むその南湖は、人工的に整えられた人造美と、背後の紫雲山が作る自然美が見事に調和し類まれなる庭園美を見せる、まさに栗林公園を代表する優れた景観である。また、芙蓉峰から望む北湖も素晴らしく、両岸に広がる青々とした松が奥へと伸びるその様は、南湖とはまた違った美しさを醸し出している。 紫雲山に面する栗林公園は、その斜面をも余すところ無く利用している。紫雲山の斜面のうち、岩肌が荒々しく露出した部分は赤壁と呼ばれ、また赤壁がくぼんだ所には、桶を使って水を汲み上げていたという桶樋滝が落ちている。赤壁の対岸には、かつて戞玉亭という茶室があったが今は無く、新日暮亭という茶室が移築されている。その露地を流れるせせらぎの中には降蹲踞(おりつくばい)が残っているが、これは戞玉亭時代唯一の遺構だ。また、園内には薬草を育てる薬園も設けられていた。この薬園は学者であり発明家としても知られる平賀源内が、宝暦9(1759)年から2年間に渡って薬草収集の頭取として従事していた、ゆかりある薬園である。 栗林と名は付くものの、栗林公園に現存する栗の木は少ない。かつては飢餓の際の食料とする目的で北門付近に栗の木が植えられていたものの、今では10本ほどを残すのみだ。栗林公園を構成する主たる植物は、昔から松である。園内には1000本以上ものの松が立ち並び、整えられている。南湖の北側には箱の形に刈り揃えられた箱松と背の高い屏風松がそれぞれ歩道に沿って並木を作り、また北湖の西岸にある掬月亭のたもとには、根上り五葉松という立派な松があるが、これは高松藩9代藩主の松平頼恕(まつだいらよりひろ)が、江戸幕府11代将軍の徳川家斉(とくがわいえなり)により賜った盆栽が見事に成長したものだという。 2009年10月訪問
【アクセス】
ことでん「栗林公園駅」より徒歩約10分。 JR高徳線「栗林駅」より徒歩約20分。 【拝観情報】
拝観料400円、拝観時間は日の出から日没まで。 ・兼六園(特別名勝) ・岡山後楽園(特別名勝) Tweet |