虹の松原

―虹の松原―
にじのまつばら

佐賀県唐津市
特別名勝 1955年指定


 古くより松浦潟として歌にも詠まれてきた唐津湾。その弓なりに湾曲する砂浜に沿って、青々と茂る松原がどこまでも続いている。これは江戸時代の初頭、唐津藩主である寺沢広高(てらざわひろたか)が命じて作らせた虹の松原である。その長さは5km以上。砂浜の前進および松の自然繁殖、人工植樹によって奥行きも400mから700mほどと発達。面積は約240ヘクタールにも及び、そこには約100万本もの黒松が生育しているという。虹の松原は日本に点在する松原の中でも特に美しいものであるとされ、静岡県の三保の松原、福井県の気比松原と共に、日本三大松原の一つにも数えられている。その光景は白い砂浜と相まって、まさに白砂青松の世界を見せてくれる。




虹の松原を浜から見る

 父親と共に豊臣秀吉に仕え、関が原の戦いでは徳川家康に従じて功績を挙げた寺沢広高は、江戸時代に入ると唐津藩12万石、天草4万石を有する一大名として唐津藩の初代藩主に就任する。広高は唐津城を築城すると共に、城の東、松浦川の右岸一帯にて新田の開発に着手。その際に、唐津湾に面した長い砂浜に防風林、防砂林、防潮林として松を植えたのが、虹の松原の始まりである。松原は唐津藩によって管理がなされ、松の伐採を行った者は死罪とするなどその保護は極めて厳重であった。なお、江戸時代当時、この松原はその長さより二里の松原と呼ばれていた。虹の松原と呼ばれるようになったのは、明治時代に入ってからの事である。




海風に吹かれ、斜めに傾斜している松の木々

 広高の死後、唐津藩は広高の子である寺沢堅高(てらざわかたたか)が二代藩主として治めていた。しかし寛永14(1637)年、島原藩の島原半島と当時唐津藩であった天草諸島で大規模な一揆が勃発する。いわゆる島原の乱である。その責任を問われて天草領は没収となり、それによって堅高は気を病み正保4(1647)年に江戸にて自殺。寺沢家は断絶してしまう。改易となった唐津藩には明石藩より大久保家が入ったが、その後も移封により松平家、土井家、水野家、小笠原家と唐津藩藩主は変わっていった。しかしいずれの時代にも虹の松原は丁重に扱われて後世に受け継がれ、明治維新後は国有林として今に残った。




虹の松原のほぼ中心に位置する常盤の松

 虹の松原には七不思議の話が昔より伝えられている。その内容は「豊臣秀吉が松原を通りかかった際、あまりにセミが騒々しかった為うるさいと一喝して以来、セミの鳴き声が消えた」「高く茂って展望が利かない松に対し、頭が高いと秀吉がにらんだ事から、松の背が低くなった」「根上がりの松が多数並んでいる」「槍が掛けられるほど広がった枝を持つ松が、二本双子のように並んでいる」「赤松は一本も無く、全ての松が黒松である」「海の側であるのに、松原中心付近では真水の出る井戸がある」「唐津湾に浮かぶ、高島と神集島を結ぶ延長線が松原の中心」というものである。




松原の南に位置する鏡山の展望台から見た虹の松原

 虹の松原は江戸時代に作られたはずなのに秀吉が登場するなど、伝説の域を出ない話ではあるが、中には科学的に説明が付くものもあり、虹の松原の特徴を表した話であるとも言える。例えばにらみの松の話。確かに松原の松は背が低く、頭を垂れたように屈んでいるが、これは海から吹き付ける風にあたり続けた結果である。また、赤松が無く黒松だけなのは、黒松の方がより風に強く、栄養に乏しい土壌でも育つためだ。広高はこの特性を知っており、あえて黒松のみを植えたのだろう。真水が出るのは、松原中心部付近の地下を、鏡山から続く岩盤が通っており、そこから湧き出しているのだ。



松原は唐津城の城下まで続く

 現在、虹の松原は唐津の景勝地としてその名を轟かせているが、戦後より現在に至るまでマツクイムシに悩まされており、その害虫被害により名のある大木を含めた数多くの松が枯死してしまった。これに対してヘリコプターによる薬剤の空中散布などの対策が続けられた結果、今ではその被害も大分減少したという。また、近隣住民の生活様式の変化も松原に影響を及ぼしている。かつては松葉を燃料として使うため、頻繁に松葉かきが行われていたが、近年はそれも行われなくなり土壌が富栄養化。雑草や広葉樹の雑木がはびこり、松原の景観が失われつつある。それを防ぐべく、現在は松葉かきのボランティア活動が行われるようになった。

2009年10月訪問




【アクセス】

JR筑肥線「虹ノ松原駅」より徒歩約5分。

【拝観情報】

鏡山の展望台から全景を望む事ができる。

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