―東近江市五個荘金堂―
ひがしおうみしごかしょうこんどう
滋賀県東近江市 重要伝統的建造物群保存地区 1998年選定 約32.3ヘクタール 中世から近代にかけて全国で活躍した近江商人。琵琶湖東部にある五個荘は、近隣の八幡や日野、愛知川などと共に近江商人の出身地として知られている。その五箇荘の中心地である金堂地区には、大成を収めた五箇荘商人たちが建てた本宅が今も残っており、萱葺き屋根の伝統的な農家群と混在した特異な在郷景観を目にすることができる。 五個荘は古くより田園地帯として開発され、また交通の要所でもあった。金堂の歴史も同様に古く、今に残る町の地割は、十字路が食い違い四辻になっていたりと時代に伴う変化はあるが、おおむね奈良時代の条里制の区画が元となっている。また、金堂という名も奈良時代この地に巨大な寺院があったことから付いたものである。なお、その寺院は浄栄寺という名で現在も残っている。 現在の金堂に見られる集落が形成され始めたのは、江戸時代に入ってからのことだ。元禄6(1693)年に大和郡山藩の代官所である金堂陣屋が置かれ、その陣屋を中心に条里制地割に沿って寺院や農家が整然と配された。その後、五箇荘商人が誕生すると商家の本宅が建つようになり、そうして金堂は農家と商家本宅が混在する半商半農の集落となった。 五箇荘から商人が輩出されるようになったのは、他の近江商人の町と比較して意外に遅い。まず江戸初期に八幡の商人たちが全国規模の商売を始め、その後日野の商人たちがそれに続いた。五箇荘の商人たちが活躍を見せたのはさらにその後、江戸末期から昭和初期にかけてのことである。ゆえに現在金堂に残る商家の本宅は、明治から大正にかけて建てられたものがほとんどだ。 五箇荘の農家が商売を始めたのは、農業だけでは生活が貧しかったことによる。商人たちは商品を売りに行った先で商品を仕入れ、戻ってきて売るという「ノコギリ商法」によって財を築き、金堂からも多くの商家が誕生した。しかし金堂には多くの商家本宅がありながら、店舗を見ることはできない。これは金堂がもともと商人町として作られたのではなく、行商はあくまで農業の副業であったため、店を出すことが禁じられていたためである。 豪商の本宅は、切妻や入母屋作りの主屋、池や築山を配した庭園、そして白壁の土蔵などから構成されている。印象的なのは土蔵の腰壁(壁の下部に張られた板)で、これは琵琶湖の船に用いられていた丈夫な舟板を利用したものである。また、道の脇には水路が通されているが、各家ではカワトと呼ばれる洗い場へこの水路の水を引き込み、生活用水として利用している。 2008年03月訪問
【アクセス】
近江鉄道本線「五箇荘駅」より徒歩約30分。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・近江八幡市八幡(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |