―高梁市吹屋―
たかはししふきや
岡山県高梁市 重要伝統的建造物群保存地区 1977年選定 約6.4ヘクタール 岡山県、備中の山嶺にたたずむ吹屋の集落は、江戸時代から昭和初期にかけて、吹屋銅山から産出される銅鉱石と、その副産物であるベンガラの生産で栄えた鉱山町だ。特に顔料や防腐塗料として用いられるベンガラは、日本で唯一吹屋のみが生産を行っていた特産品であり、その赤褐色の粉末によってこの山村集落は莫大なる富と繁栄を手に入れることができた。山間の小さな街道を進んで行くと、ベンガラに彩られた赤い町並みが忽然と現れるその様は、今もなお往時の繁栄が続いているのではないかと思わせるほどのものである。 吹屋に栄華をもたらした吹屋銅山の歴史は、その開発が始まった平安時代の大同2(807)年にまで遡る。本格的な採掘が始まったのが室町時代で、戦国時代には毛利氏と尼子氏が銅山の争奪戦を繰り広げ、また江戸時代には幕府の天領直轄地として代官がこの地を納めていた。天和元(1681)年には住友財閥の前身である大阪の泉屋が幕府より銅山の開発を請け負い、排水工事などを進めて銅の産出量を増大させることに成功。それによって銅山で働く工夫の数は1000人以上までに膨れ上がり、吹屋は鉱山町として大いに賑わうこととなる。 元禄17(1704)年、吹屋の代官を兼ねていた庄屋の西江家が銅山の捨石に含まれる酸化鉄鉱を利用したベンガラの生産に日本で始めて成功する。ベンガラ(紅殻/弁柄)は古くから世界中で用いられてきた褐色の顔料で、かつてはインドのベンガル地方から日本に輸入されていたためその名が付いたという。染物や陶器の顔料として使われる他、菌を繁殖させない性質から建築物の防腐塗料としても重宝されてきた。それ以降、吹屋は日本唯一のベンガラ生産地として莫大なる富を築き上げ、更に明治に入ると三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が近代技術をもたらし、吹屋は大正時代初期に最盛期を向かえた。 そうして富を成した吹屋の商家たちは、その財力を誇示するかのごとくベンガラ塗りの建物を次々建て、吹屋の町並みを褐色に染め上げていった。それは今もなお変わることなく昔のままに残されており、それゆえ吹屋の町並みは兎にも角にも赤、赤、赤。ベンガラが混ぜられ赤みがかった土壁、ベンガラが塗られた格子に柱、そして山陰地方特産の赤い光沢を放つ石州瓦。褐色に彩られた極めて完成度の高い吹屋の町並みは、まさにベンガラの産地ならではの、唯一無二の町並み景観と言えるだろう。 吹屋の商家建築は石州瓦の乗った切妻屋根が主体であり、妻入、平入のいずれも多い。壁は塗込で、目の細かいベンガラ格子がはめらているものや、一階や二階の腰になまこ壁が張られたものまでそのスタイルは多様である。建物の規模は中流の商家で間口5間、奥行きは16間ほど。大規模な商家になると主屋の横に蔵が付属する。吹屋のやや奥には宝暦9(1759)年よりベンガラの製造および販売を行っていた老舗のベンガラ商家、旧片山家住宅がある。その敷地内にはベンガラ販売の店舗である主屋と、ベンガラ製造に関する付属屋が建ち並び、吹屋におけるベンガラ商家の典型として2006年重要文化財に指定された。 吹屋の町並みから少し離れたところには、また日本で始めてベンガラの製造に成功した西江家の屋敷や、ベンガラ製造の途中過程であるローハ(緑礬)の製造で財を成した広兼家の屋敷が建っている。静かな山の中に忽然と現れる、まるで城郭建築のようなこれらの大豪邸は、吹屋の町並みとともに往時の吹屋銅山の繁栄ぶりを表す歴史的な建造物である。また、吹屋の町並みの近くには、江戸時代から大正時代まで黄銅鉱などを産出した笹畝(ささうね)坑道が残り、吹屋の重伝建選定を機に整備が行われ、その内部が一般にも公開されている。 2009年08月訪問
【アクセス】
JR伯備線「備中高梁駅」より備北バス「吹屋行き」で約1時間、「吹屋バス停」下車すぐ(1日3本)。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・大田市大森銀山(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |