―美馬市脇町南町―
みましわきまちみなみまち
徳島県美馬市 重要伝統的建造物群保存地区 1988年選定 約5.3ヘクタール 高知県北部の山岳地帯に端を発し、徳島県を西から東へと横断する吉野川。その中流域の北岸、徳島県のほぼ中心に脇町はある。陸上交通と吉野川の水運、その双方に恵まれた脇町は、江戸時代から明治時代にかけて、阿波の特産品である阿波藍の集散地として繁栄した商家町だ。中でも南町通りには、現在もなお藍の取引で富を蓄えた商家が建ち並び、往時の繁栄を今に伝えている。そのような脇町の商家建築で特に有名かつ特徴的なのが、主屋の二階部分両脇に設けられた卯建(うだつ)だ。通りに連なる卯建の小屋根は、脇町の象徴としてその存在を誇示し続けている。 脇町は吉野川北側を池田から鳴門まで繋ぐ撫養(むや)街道と、讃岐の高松へ通ずる街道が交差する陸上交通の要害にあり、また吉野川を使った水運も盛んであることから、古くより重要視されていた。戦国時代に脇権守(わきごんのかみ)という豪族が館を構えたのを始めとし、天文2(1533)年には三好長慶(みよしながよし)がこの地に脇城を築き、同じく脇町にあった岩倉城と共に脇町周辺を支配した。関が原の戦い後、蜂須賀家政が阿波に入った際には、脇城は阿波九城の一つにも位置づけられ、後に一国一城令によって廃城となる寛永15(1638)年までの間、脇町は脇城の城下町として発展した。 江戸時代、徳島藩藩主の蜂須賀氏は阿波の産業として藍の生産を奨励した。元々阿波では、平安時代に山岳武士である忌部(いんべ)氏が葉藍の栽培を始めたのを発端とし、藍は吉野川沿いに広まって戦国時代などでも生産が行われてきたのだが、この蜂須賀氏の保護により藍の生産量は飛躍的に上昇。地場産業として徳島藩の財政を支えるほどの隆盛を極めたという。吉野川流域の各地で作られた藍は、交通の便が良い脇町へと集散され、そして吉野川の水運によって大阪や名古屋、江戸などへと出荷されていった。脇町の商家は、この藍の流通によって潤い、富を蓄えていったのだ。 藍によって財を成した脇町の商人たちは、その己が繁栄を誇示するかのごとく、豪華な町家を次々と建てた。現在脇町に見られるものは本瓦葺きの切妻屋根平入り、厨子二階建てが一般的で、防火のため内外共に露出する木材を漆喰で塗り込めた大壁造りなど、重厚な構えを持つものが多い。そして二階の両脇には、脇町商家最大の特徴である卯建が上がる。現存するこれらの町家は江戸時代中期からのもので、最も古い建物は宝永4(1707)年の棟札を持つ国見家である。明治時代に入ると鉄道駅が対岸の穴吹に作られたことにより経済活動の拠点がそちらへと移行。そのため脇町は近代の開発から逃れ、昔の姿を今に留めることができた。 本来卯建というものは、隣家が火事になった際にその火が自分の家に移るのを防ぐために作られる、防火壁であった。しかし卯建の設置には多額の費用を要するため、転じて卯建はその家の財力を示す象徴となり、商家は競うように卯建を上げたのだ。脇町の他にも、卯建で有名な町並みは岐阜県の美濃市美濃町や、長野県の東御市海野宿などがあるが、これらの卯建と比べ、脇町のものは角ばっていて壁も厚く、卯建本来の役割である防火壁の色をより濃く残しているように見える。脇町の他にも、このような角ばった堅固な卯建は吉野川沿いの貞光や池田などといった町に見られ、特に貞光のものはより装飾的で華やかなものとなっている。 脇町南町から小さな川を隔てたその東側には、オデオン座と呼ばれ、親しまれている脇町劇場がある。これは昭和9(1934)年に脇町の事業家の協力を得て創設された劇場であり、様々な芝居や映画が上映され地域の娯楽を担っていた。しかし老朽化などの理由から平成7年に閉館が決まり、やむなく取り壊されることになったのだが、その翌年、映画監督の山田洋次が映画「虹をつかむ男」のロケ地にこのオデオン座を使用したことで一躍脚光を浴び、平成10年には市指定文化財の指定を受け修復、保存されることになった。今後もオデオン座は脇町の顔の一つとして、維持されていくことだろう。 2009年08月訪問
【アクセス】
JR徳島線「穴吹駅」より徒歩約1時間。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・東御市海野宿(重要伝統的建造物群保存地区) ・美濃市美濃町(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |