丸亀市塩飽本島町笠島

―丸亀市塩飽本島町笠島―
まるがめししわくほんじまちょうかさじま

香川県丸亀市
重要伝統的建造物群保存地区 1985年選定 約13.1ヘクタール


 瀬戸内海のほぼ中心、大小28の島からなる塩飽(しわく)諸島。水運の要に位置するその島々には、昔から船に関する仕事を生業とした人々が暮らしていた。それら塩飽諸島の中心地、本島(ほんじま)の北東端に笠島地区はある。北を海に面し、それ以外の三方を山に囲まれた笠島の地形は、外部からは内部が見えにくく、また内部からは外部への見張りが利くという防衛に優れた地形であり、それゆえ塩飽水軍の本拠地として繁栄した。




港町らしく町の片隅には常夜灯が残る

 12世紀頃より瀬戸内海の島々は荘園化されていったのだが、塩飽諸島も例外ではなかった。その後荘園が解体されると、塩飽の人々は海運で名を馳せ、力を持ち、時には強奪を行う水軍となった。その力を重く見た織田信長は朱印状を与え手を結ぶ。それは豊臣秀吉、徳川家康にも引き継がれ、江戸時代、塩飽水軍は幕府の御用船、御用船方として活躍するに至った。




笠島から少し離れた場所にある塩飽勤番所跡
自治によって統治されていた稀な政庁として史跡に指定されている

 塩飽諸島は幕府により自治が認められた異例の地域であり、人名制という独自の制度により治められていた。幕府により徴集される御用船方は人名(にんみょう)と呼ばれていたのだが、それら人名の中から4人の年寄が選出され、交代で塩飽の行政を行っていたという。笠島から南西に行ったところには、かつて年寄たちが政治を執っていた政庁、塩飽勤番所跡が今でも残されている。




港から見る笠島の町並み
港は昭和になって砂浜を埋め立て作られた

 江戸中期に入ると大坂の廻船問屋に運航権が渡り、塩飽船方の需要は激減してしまう。代わりに塩飽の人々は、それまでの船大工としての技能を活かし、塩飽大工として各地に散り、その腕を振るって吉備津神社など数多くの名建築を残した。また、塩飽の水運技術も北前船などに乗り込んだ水夫たちにより受け継がれていった。幕末、初めて太平洋を横断した咸臨丸の水夫たちは、その多くが塩飽の出身であったという。




東西に通るメインストリート、マッチョ通り

 島の集落としては珍しく、笠島ではまるで城下町のような計画的に整備された町並みを見ることができる。道は見通しが利かないよう、直線ではなく弓なりに湾曲しており、十字路ではなく食い違いT字路で交わっている。これは中世、笠島東側の山の上に地頭高階保遠の居城である笠島城が置かれたことで、城下町として整備されたその名残である。




代々年寄を勤めていた真木家の邸宅

 笠島では東西に通るマッチョ通りをメインストリートとし、南北に通る東小路とT字に接続している。さらにこれら二本の道から櫛状に小路が伸び、笠島の町並みが構成されている。なお、マッチョ通りの「マッチョ」とは、「町通り」が訛った言葉だという。通りに面した家々は本瓦葺きの厨子二階建て、虫籠窓や格子窓を持つ町屋建築が多く、かつての塩飽水軍の繁栄が忍ばれる。

2007年11月訪問




【アクセス】

「丸亀港」より本島汽船フェリーで約30分「本島港」下船、徒歩約40分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。