西予市宇和町卯之町

―西予市宇和町卯之町―
せいよしうわちょううのまち

愛媛県西予市
伝統的建造物群保存地区 2009年選定 約4.9ヘクタール


 愛媛県南西部、肱川(ひじかわ)の上流に広がる標高200メートルの宇和盆地。多数の扇状地から成るその土地は、農業に適した肥沃な土壌を人々に提供し、稲を始めとする豊かな作物を育んできた。また、比較的海岸近くに開けているその盆地は、大洲と宇和島を繋ぐ宇和島街道が通るなど、四国西部の交通にとっても重要な土地でもある。その宇和盆地の中心に位置する卯之町は、宇和盆地で収穫された作物や宇和檜の集散地として、また宇和街道の中継を担う宿場町として、加えては四国霊場第43番札所である源光山明石寺の門前町としてなど、極めて多様な機能を有し、江戸時代を通じて賑わった在郷町である。




卯之町中心部、中町の町並み

 宇和盆地は嘉禎2年(1236年)に西園寺氏の荘園となり、永和2年(1376年)には松葉城が山の尾根上に築かれ、そこに西園寺氏が入城した。卯之町は、この松葉城の城下町を起源とする町である。江戸時代には宇和島藩下となり、宇和島街道に沿う形で宿場が形成され、前述の通り多様な機能を持つ町として大いに発展した。近代に入ると、それまでの町の中心であった宇和島街道沿いより南に道路や鉄道が整備され、町としての機能もまたそちらへと移って行った。それゆえ宇和島街道沿いの町並みは、開発によって大きく破壊される事無く現代に至り、近世の卯之町の姿を今に留める事ができたのだ。




天保5年(1834年)に庄屋の鳥居半兵衛が建てたという鳥居門(右)

 卯之町は藩政時代からの町割を良好に残す町である。肱川に沿って伸びる宇和島街道は、大洲方面から宇野盆地に入ると共に進路を南東へ変え、卯之町に至る。卯之町へと入った宇和島街道は、まずは新町を通り、その先に設けられた枡形(ますがた、宿場の防衛のためにクランク状に折られた道)を経て中町(なかのちょう)に出る。この中町こそが、かつての卯之町の中心部である。中町を過ぎると、街道は南西へ折れて下町に入り、卯之町から抜けて宇和島方面へと続いて行く。これら宇和島街道沿い、および中町に平行してその南を通る横町、そして中町の北側一帯が、重要伝統的建造物群保存地区の選定範囲だ。




卯之町に並ぶ、卯建(うだつ)を持つ妻入の町家

 昔の町割と共に、卯之町には江戸時代末期から明治時代にかけての建物も数多く残されている。特に卯之町の中心を担う中町には、壁を白漆喰で塗り込めた重厚な町家が数多く建ち並んでおり、それも切妻屋根の妻側を表に向ける妻入の町家と、平側を表に向ける平入の町家が混在するといった、他ではあまり見られない特徴的な町並みとなっている。細部の意匠もなかなかに凝っており、卯建(二階の側部に設けられた防火壁兼装飾用の横壁)が上げられているものや、軒下に装飾が施された「ひじ」と呼ばれる持送り(庇を支える部材)を持つもの、屋根に乗った飾瓦などを見ることもできる。




高野長英(たかのちょうえい)が隠れ住んだという離れの二階部分

 中町の通りから一本裏に入った横町には、幕末の開国論者であった高野長英が隠れ住んだ家が、二階部分のみではあるが残されている。異国船打払令に基き、アメリカの商船に砲撃を行った、いわゆるモリソン号事件を反する意見を「戊戌夢物語」に著した長英は、天保10年(1839年)の蛮社の獄にて捕らえられ、投獄されてしまう。その後、牢の火災に乗じて脱獄した長英は各地を転々とし、嘉永元年(1848年)に宇和島藩へと入って、翌年にはシーボルトの元で学んでいた学友の二宮敬作(にのみやけいさく)を頼って卯之町を訪れ、敬作の自宅裏にある離れの二階に三ヶ月ほど滞在していたのだ。




重要文化財に指定されている、擬洋風建築の開明(かいめい)学校

 長英が身を寄せた二宮敬作もまた、卯之町にて町医として活躍し、シーボルトの娘である楠本イネを日本初の女医に育てた偉人である。その影響あって、卯之町は学問への志向が極めて強く、明治維新後の明治2年(1869年)には町の有志や、卯之町に程近い八幡浜出身の漢学者である左氏珠山(さししゅざん)の弟子達によって、私塾の申義堂(しんぎどう)が建てられた。それは明治5年(1872年)に開明学校となり、また校舎が手狭になったことから、明治15年(1882年)には擬洋風建築(和建築の手法で洋風建築を真似た建築)の新校舎が建設された。その新校舎は今もなお、卯之町のシンボルとして建ち続けている。

2010年03月訪問
2011年06月再訪問




【アクセス】

JR予讃線「卯之町駅」より徒歩約5分。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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