―八女市黒木―
やめしくろぎ
福岡県八女市 重要伝統的建造物群保存地区 2009年選定 約18.4ヘクタール 福岡県の南端部、山間を流れてきた矢部川と笠原川の合流点西側に黒木の町は存在する。古くは中世の頃に築かれた猫尾城の城下町があり、その後の江戸時代には久留米藩の在郷町として多大なる発展を遂げた。周囲の山々で生産される茶や楮、堅炭などの集散地として賑わい、久留米藩領における五ヶ町のひとつに数えられていたという。今もなお、かつての往還道沿いに古い町並みが良好に残っており、特に外壁を漆喰で塗り篭めた「居蔵(いぐら)」と呼ばれる土蔵造の町家が数多く現存している。また江戸時代に高度な水利技術をもって築かれた用水路がもたらす水辺景観と相まって、黒木では特徴的な町並みを目にすることができる。 黒木の歴史の始まりは、平安時代末期の仁安2年(1167年)に大隅国の根占を拠点としていた源助能(みなもとのすけよし)が矢部川と笠原川の合流点東の猫尾山に猫尾城を築き、黒木氏を名乗ったことに遡る。戦国時代、黒木氏は龍造寺氏に属していたことから大友氏によって攻め込まれ、猫尾城は天正12年(1584年)に落城。黒木氏は滅亡してした。現在に通じる黒木の町は、豊臣秀吉が九州征伐を行った天正15年(1587年)に開かれた。まずは下町が形成され、慶長期(1596年〜1615年)にかけて中町、上町が開かれたという。町の北側を通る中井手用水もこの頃に整備され、また江戸時代中期の正徳4年(1714年)には町の南側を通る黒木廻水路も開削され、町の基盤が形成された。 黒木の町筋は、東西約1.1キロメートルの長さに渡る。その西端には嘉応元年(1169年)に黒木氏が創建したと伝わる黒木町の産土神、津江神社が鎮座しており、そこから下町が緩やかに湾曲しながら東へ通り、クランク状に折れ曲がって中町、上町と続き、東端には素盞鳴(すさのう)神社が鎮座する。このうち中町と上町は国道442号線が通ることから、近代の拡幅工事による町並みの破壊もあるが、それでもなお数多くの町家が上町を中心に残されている。また下町は閑静な住宅街となっており、中心部では路地の両側に居蔵造の町家が残る。同じく居蔵造の町家が数多く残る八女福島の町並みと比べると、黒木は各家の敷地は間口が広く、大型の町家が多いのが特徴的だ。 江戸時代後期の文政4年(1821年)には上町を焼く火事があり、また明治13年(1880年)にも上町と中町、下町の一部を焼く火事があった。その頃の黒木の町家は茅葺屋根が主流であったのだが、これらの火災がきっかけとなり、より耐火性の高い居蔵造が一気に普及したと考えられている。黒木の居蔵造は桟瓦葺きの入母屋造で妻入を基本とし、外壁や軒裏を漆喰で塗り篭める大壁である。八女市福島に見られる居蔵造と同様、正面と左右の側面には下屋を降ろし、二階には縦長の窓を三ヶ所ほど開けている。一階の腰部分に近隣地域で産出される青石を貼りつけている家も多々あり、より装飾性の高い、重厚かつ壮大な町家に仕上がっている。 黒木町の町並み保存地区は、黒木廻水路に水を送る黒木堰を含む矢部川、および対岸の水田を包括する範囲である。江戸時代初期の元和6年(1620年)、幕府は矢部川を藩境とし、その右岸を有馬氏の久留米藩、左岸を立花氏の柳川藩の領土と定めた。両藩は田畑の面積に比べて水の供給源が少なく、より多くの灌漑用水を確保すべく「廻水路」と呼ばれる独自の水利システムを築き上げた。これは矢部川に堰を築いて自領へと水を引き込み、灌漑で余った水を相手の堰の下流に戻し、そこに再び自領の堰を設けるというものだ。黒木堰と黒木廻水路もまたその一部であり、周囲の田畑と共に、大規模な堰や関連施設の造営によって研鑽された高度な利水システムを今に伝えている。 黒木町の東端には位置する素盞鳴神社の境内には、樹齢約600年のフジが見事に枝葉を伸ばしている。このフジは南北朝時代末期の応永2年(1395年)、南朝方の皇族として九州の北朝方と戦った征西将軍良成親王(よしなりしんのう)が植樹したものと伝わっている。戦国時代の天正12年(1584年)には大友氏の兵火を被り、また文政の大火でも多大な損傷を受けたが、現在もその樹勢は衰えず、毎年四月中旬から五月上旬にかけて枝全体に数千万の花房を垂らし、境内中を紫色に染めている。また町西端の津江神社に聳える樟(クス)は樹齢約800年を越えており、樹高約40メートル、幹周り約12メートルの堂々たる威容を見せている。 2014年09月訪問
【アクセス】
JR鹿児島本線「羽犬塚駅」から堀川バス「羽矢線」で徒歩約45分、「黒木バス停」下車すぐ。 【拝観情報】
町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・八女市八女福島(重要伝統的建造物群保存地区) ・うきは市筑後吉井(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |