千曲市稲荷山

―千曲市稲荷山―
ちくましいなりやま

長野県千曲市
重要伝統的建造物群保存地区 2014年選定 約13.0ヘクタール


 長野県北部、古くより善光寺平と称されてきた長野盆地の南端に、稲荷山という町が存在する。江戸時代には中山道の洗馬宿から分岐して善光寺へと至る北国西往還の宿場町として賑わい、また江戸時代末期から明治時代にかけては周辺地域で産出された品々が集散する商家町として多大に栄えた。南北に通る旧街道に沿って近世の町割が良く残り、重厚な塗り篭めの商家や茅葺の家屋といった、多種多様な伝統建築が軒を連ねている。また裏通りには土蔵が建ち並ぶなど、往時の繁栄を色濃く残す町並み景観を目にすることができることから、昔ながらの町域にあたる東西約200メートル、南北約850メートルの範囲が重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。




稲荷山城の本丸にあたる松木家
廃城後は代官所が置かれ、宿場の本陣や問屋を兼ねていた

 稲荷山の歴史は天正10年(1582年)、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が稲荷山城を築いたことに始まる。武田氏の滅亡と本能寺の変によって混乱した情勢の中、上杉氏は空白地帯となった善光寺平へ進出。徳川方であった上田の真田昌幸(さなだまさゆき)や深志(松本)の小笠原貞慶(おがさわらさだよし)と抗争を繰り広げた。その拠点は海津城(松代城)であったが、前線からやや距離があり、また海津城の副将であった屋代秀正(やしろひでまさ)が徳川方に寝返る可能性があったことから、その抑えとして稲荷山城を築いたのだ。その後の慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉氏が会津へ移ると稲荷山城は廃城となり、その本丸跡には代官所が置かれることとなった。




町の中程にはクランク状に折れる「鍵の手」が残る

 現在に通じる稲荷山の町割は、稲荷山城の城下町として築かれたものだ。城の西側に南北の道を通し、北から「新町」「五日町」「横町」「柳町」の四町(現在は「荒町」「中町」「横町」「八日町」となっている)を築き、周辺地域より百姓を移り住まわせた。そのうち横町には、通りの見通しを利きにくくする「鍵の手」を設けている。また周囲には水路を巡らしているが、これは稲荷山城の堀跡といわれている。江戸時代に入ると稲荷山は宿場町として機能しだし、慶長19年(1614年)に北国西街道が整備されたことで、正式な宿場として組み込まれた。北国西往還は「善光寺道」とも呼ばれ、善光寺参りの参詣道や、善光寺平と松本平を結ぶ物資の輸送路として利用されていた。




現在はほとんどが住宅として使われているが、現役の商店も僅かに残る

 19世紀に入ると商家町としての機能を持つようになり、太物(ふともの)と呼ばれる綿織物や、周辺地域からやってくる百姓の日用品を扱う商家が増加した。嘉永2年(1849年)に刊行された「善光寺道名所図会」によると、「一ヶ月九回の市が立ち、商人多くして、家数五百軒程ありて繁昌の地」とある。弘化4年(1847年)には善光寺地震が発生し、稲荷山宿もまた火災によりほぼ全焼という甚大な被害を被ったものの、復興後の幕末から明治にかけて生糸や絹織物の集散地として富を集め、善光寺平における屈指の商業地として繁栄した。しかし明治21年(1888年)に鉄道の信越線が開業すると、流通の拠点は長野や篠ノ井へと移り、路線から外れた稲荷山は商業地としての力を失っていく。




かつては料亭を営んでいた松葉屋
重厚なたたずまいで背後には付属屋や土蔵も多く残る

 現在、稲荷山に残る町並みは、善光寺地震以降に再建されたものである。他の宿場町と比べて間口が広く、各家の規模が大きい。主屋は切妻屋根の平入を基本とし、震災直後に建てられたものは中二階建、明治中期以降のものは建ちの高い本二階建となり、耐火の為に木部を塗り篭めた大壁造や、重厚な土蔵造も見られる。一階には下屋庇をつけ、二階部分は開口部を大きく取り、土塗戸や金属戸、板戸、ガラス戸などをはめ、左右に漆喰や土で塗り篭めた戸袋を設ける。屋根は桟瓦葺きで風切瓦を施したり、巨大な鬼瓦を持つ家もある。一方で茅葺屋根の家屋や、茅葺のような急勾配の瓦葺屋根家屋も建てられ続け、多種多様な様式の家屋が混在する町並みとなっている。




裏通りに連なる土蔵群

 主屋の背後には庭や作業スペースが確保され、敷地の背後に面して土蔵や付属屋が建てられている。裏通りに建ち並ぶ土蔵の間には裏門も備わる。表通りから奥まった位置には二つの寺院が鎮座するが、それらは稲荷山城の築城時に移されてきたものだ。そのうち長雲寺は癌封じの寺として知られ、京都の仏師である久七が寛文13年(1673年)に刻んだ木造愛染明王坐像(重要文化財)を所蔵している。もうひとつの極楽寺は当初稲荷山城の鬼門除けとして五日町に築かれたが、寛永14年(1637年)に水害によって堂宇が流失し、その後の寛永19年(1642年)に上八日町に再建された。ただし鐘楼だけは流失せず、そのまま現在地に移築されたものであり、稲荷山における現存最古の建造物となっている。

2015年05月訪問




【アクセス】

しなの鉄道「屋代駅」より千曲市循環バス「大循環西回り」などで約10分、「稲荷山郵便局バス停」または「上八日町バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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