牟岐町出羽島

―牟岐町出羽島―
むぎちょうてばじま

徳島県海部郡牟岐町
重要伝統的建造物群保存地区 2017年選定 約3.7ヘクタール


 徳島県の南部、高知県との県境にほど近い牟岐港から南へ約3.3キロメートルの沖合に浮かぶ出羽島。東西約620メートル、南北約980メートル、周囲4キロメートルほどの小島であり、標高72メートルの丘陵を中心に、南側には急な斜面、北側には比較的緩やかな斜面が続いている。その北端部には東から西へ伸びる砂嘴によって入江が形成されており、それを取り囲むように漁師の家屋が建ち並んでいる。昭和前期にまで形成された漁村の景観を良好に残すことから、「本町」「西波止(にしはと)」「新町」「洲鼻」の4地区から成る集落のほぼ全体と、その南側の斜面に造成された畑地の一部を含む、東西約470メートル、南北約280メートルの範囲が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。




集落南側の高台から見る手羽島の集落
東側に「本町」、中央に「新町」、奥の砂嘴上には「西波止」の町並みが続く

 史料において出羽島の名が見られるのは鎌倉時代にまで遡るが、定住者がいたかどうかは定かではない。江戸時代になると出羽島を含む海部郡は徳島藩の所属となり、牟岐村の庄屋を務めていた青木家は藩の命により沿岸を航行する船がキリシタンかどうか取り締まる「切支丹宗門改め」を命じられる。その恩賞として牟岐大島と出羽島の開墾を認められたものの、青木家の番人以外には住む者がいなかった。その後、寛政12年(1800年)に青木家は海部郡代によって出羽島への移住を命じられ、青木家の分家やその家来を含む6戸が移住して集落が形成された。諸役免除や租税の軽減、藩による支度金や漁具の貸付けなど移住奨励の措置もあり、文化2年(1805年)には50軒ほどにまで増加したという。




出羽島は路地が狭く自動車が一台も存在しない
代わりに「ねこぐるま」と呼ばれる独自の手押し車が活躍している

 出羽島は安政元年(1854年)の地震と津波によって家屋の大部分が倒壊や流出したものの、その後の復興により入江の奥を埋め立てて新たな宅地が造成され、明治9年(1876年)には87軒、明治43年(1910年)には130軒、昭和9年(1934年)には166軒まで増加した。集落の発展は主産業である漁業、特にカツオ漁の隆盛によって支えられ、明治時代までは沿岸漁業が中心であったものの、漁船の動力化や大型化、製氷技術の発達に伴い漁場は沖合や遠洋へと拡大していく。戦後は電気や水道などのインフラが整備された一方、自動車は使用されず大規模な道路の整備は行なわれなかった。また昭和30年代まで島の大部分が青木家の所有だったこともあり、各家は均等な敷地割が維持されてきた。




島北西部の山裾に家屋が連なる「洲鼻」の町並み

 現在も出羽島には安政の大地震の被害を免れた天保11年(1840年)のものを最古に、江戸時代末期から昭和前期にかけて築かれた伝統的な主屋が数多く残っている。各家の間口は三間から四間ものが多く、奥行きは立地する地形によって差異はあるものの概ね間口よりも長く矩形状の敷地となっている。通りに面して間口いっぱいに主屋を建て、屋根は切妻造の平入で桟瓦葺。明治時代までは平屋もしくは厨子二階建てがほとんどで、大正時代以降は二階の軒を高くして出桁造(だしげたづくり)とする家が増える。梁間は二間から四間の規模で風当たりを避けるため屋根を小さく抑えて前後に下屋を設け、そのうち表側の下屋は吹放ちとして左右に袖壁を設けている。




蔀戸を跳ね上げて折り畳み式の床几を出す「ミセ造」や、出格子などの特徴を見せる

 間取りはトオリニワと呼ばれる通り土間に沿って表側にアガリタテ、裏側にダイドコロと呼ばれる部屋を配し、それらの隣にオモテとオクを並べる二列四室を基本とする。オモテには床や仏壇、押入れを設え、他室より天井を高くしてその上部には二階を設けないのが慣例となっている。一階部分の表構えは戸口を半間の片引戸とし、アガリタテの正面は引違戸の掃出、オモテの正面は引違い障子の掃出としてその外側に雨戸を設けるのがより古い形式である。明治時代末期から大正時代になるとアガリタテの正面は蔀戸(しとみど)と床几(しょうぎ)から成るミセ造(揚げ見世)とし、オモテ正面を腰高窓として障子と雨戸の外側に出格子、二階部分の窓に手摺を設けるようになる。




明治初頭に築かれた石積みの大波止が現在も港や集落を守っている

 敷地の背後には主屋の一部を後方に張り出した角屋(つのや)、あるいは独立した附属屋として釜屋や風呂、便所などを設け、離島ならではの設備として雨水を溜めるための天水槽を備えていた家もある。また少数ではあるものの、敷地の周囲を生垣や石垣で囲い、その中央に主屋を構える家も存在する。集落内には砂嘴の形状や山裾に沿って続く路地のみならず、宅地から浜や漁港へ出るためのアワエと呼ばれる小路も通されている。他にも入江の入口には明治四年(1871年)頃に官費と島民が半額ずつ負担して築かれた石積の大波止や、谷の下には沢の水を引き込んだ共同井戸などが残っており、これらの工作物もまた家屋と共に徳島南海の離島に形成された漁村の歴史的風致を形成している。

2023年05月訪問




【アクセス】

・「牟岐港」より出羽島連絡船で約15分。

【拝観情報】

・町並み散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

【参考文献】

・「月刊文化財」平成28年12月(639号)
牟岐町出羽島伝統的建造物群保存地区保存整備事業|牟岐町
牟岐町出羽島|国指定文化財等データベース

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