―宇治の文化的景観―
うじのぶんかてきけいかん
京都府宇治市 重要文化的景観 2009年選定 琵琶湖に湛えられた豊富な水は、琵琶湖唯一の流出河川である瀬田川へと流れ込み、やがて宇治川と名を変え宇治市街へと到達する。宇治の町は、常にこの宇治川と共にその歴史を歩んできた。宇治川を軸として、左岸は平等院を中心に形成された市街地が重層的に発展し、製茶工場や茶商が連なる宇治特有の都市景観を見ることができる。右岸には現存最古の神社建築が残る宇治上神社など、数多くの寺社が織り成す信仰景観が広がっている。市街近郊には茶園の広がる茶所特有の農業景観が残り、これら宇治川、製茶、寺社に関連する複合景観228.5ヘクタールが、2009年重要文化的景観に選定された。なお、都市景観を含むものとしてはこれが初めての選定である。 宇治は奈良と京都を結ぶ奈良街道と宇治川とが交わる渡河点にあり、古くより往来や流通の結節点としての機能を担っていた。その交通の要所に初めて橋が架けられたのは、大化2(646)年の事である。元興寺の僧侶、道登(どうとう)と道昭(どうしょう)によって建設されたその橋こそ、宇治橋だ。以降、宇治橋の両岸には集落が形成され、そられが町へと発達していった。特に宇治川左岸は、平安時代に藤原氏ら貴族の別業(別荘地)として開発がなされ、その際に作られた格子状の町割りは今も変わらず原形を留めており、また平等院の園路であった道も路地化されて後世に残り、宇治の市街地はそれらに沿って形成されていった。 宇治と言えばやはり宇治茶が有名であろう。日本における茶の文化は、鎌倉時代、中国から茶を持ち帰った栄西(えいさい)禅師から種を譲り受けた明恵(みょうえ)上人が、高山寺に茶園を開いた事により始まる。その後、明恵上人は宇治の地に茶の木を植え、そこから日本全土に広まった。室町時代には有力武将たちがこぞって宇治に茶園を設け、また江戸時代には幕府に宇治茶が献上されるなど、宇治は日本茶文化の発展における中心地となった。近世から明治にかけて、宇治には茶園(生産)、製茶工場(加工)、茶商(販売)といった茶に関する機能が全て揃っており、今でも宇治市内にはそれらの建物が、伝統的な製茶の技法と共に残されている。 市街地となった宇治川左岸は比較的開けた土地であるが、右岸は仏徳山や朝日山などの山がそびえ、平地はそれほど多く無い。それらの山の麓には主に寺社が集まっている。応神天皇の子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の居住跡には宇治神社に宇治上神社が建てられ、礼法として茶が武家に広まった室町時代、斯波(しば)氏によって作られた朝日茶園の跡地には、江戸時代になって興聖寺が建てられた。なお、この興聖寺の本堂は伏見城の遺構と伝わっている。他にも、弘仁13(822)年に弘法大師により開かれ、寛弘2(1005)年に再興された恵心院や、宇治橋架橋の由来が記された宇治橋断碑を持ち、宇治橋の管理を担ってきた放生院など、古刹が多い。 宇治川のやや上流、宇治市街地から山を一つ超えたその谷間に位置する白川地区は、豊かな里山と広大な茶畑が広がる宇治の奥座敷である。そこには茶畑を始めとした農業景観を見る事ができる他、8世紀後半に創建され、平安時代には藤原頼道の娘である藤原寛子が建立した金色院の鎮守社にもなった白山神社が鎮座し、また奈良時代から平安時代にかけての仏像が多数残る地蔵院も現存している。その白川地区のうち、現在重要文化的景観の範囲に入っているのは白山神社のみであるが、今後は2011年までに、茶畑を含む白川地区の291.5ヘクタールが追加申請される見込みとなっている。 宇治川の北に位置する萬福寺を中心とした黄檗(おうばく)地区の26.7ヘクタールもまた、白川地区と同じく重要文化的景観への追加申請が準備されているエリアである。萬福寺は明の僧侶である隠元隆g(いんげんりゅうき)によって万暦20(1592)年に開山された黄檗宗の仏教寺院であり、建物や仏像、儀礼作法に至るまで、すべてが中国式に整えられているのが特徴だ。萬福寺は現在の一般的な喫茶である煎茶の文化、その祖である売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺でもあり、現在もなお全日本煎茶道連盟の会長は代々萬福寺の管長が務める慣例があるなど、煎茶文化の発信地として現役である。 2009年10月訪問
【アクセス】
JR奈良線「宇治駅」より徒歩約10分。 【拝観情報】
散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。 ・平等院鳳凰堂(国宝建造物) ・宇治上神社本殿(国宝建造物) Tweet |