通潤用水と白糸台地の棚田景観

―通潤用水と白糸台地の棚田景観―
つうじゅんようすいとしらいとだいちのたなだけいかん
重要文化的景観 2008年選定

熊本県上益城郡山都町


 九州の中央部、阿蘇外輪山の南に広がる白糸台地は、四方を峡谷によって取り囲まれた土地にある。古くより舟運による流通・往来の拠点として機能していた一方、その険しい地形ゆえに河川から水を引くことが難しく、農業用水はおろか生活用水を確保することすら困難であった。江戸時代の末期、住民たちの要望を受けた布田保之助(ふたやすのすけ)は白糸台地に水を引く通潤用水を整備し、台地上に次々と棚田が造成されていった。これら一連の工事は、近世後期に実施された地域主導の開発事業では最も難易度が高く、大規模なものであったという。通潤用水は開削当初より代々世襲によって管理がなされ、現在も約118ヘクタールの棚田に水を供給し続けている。




白糸台地に水を送る通潤用水

 江戸時代、熊本藩は手永(てなが)と呼ばれる行政組織で地方を治め、その責任者は惣庄屋(そうじょうや)と呼ばれていた。32歳の若さで惣庄屋に就任した布田保之助は、道路敷設や架橋などの実績を重ね、52歳の時にかねてからの念願であった通潤橋の建造を開始した。通潤用水の開削は保之助の人生における総決算というべき事業だったのだ。通潤橋を築くにあたっては、石工に各地の石橋や熊本城の石垣を見学に行かせ、水路橋の漏水や崩壊を防ぐため研究を重ねたという。そして上役である郡代の上妻半衛門や、そのさらに上役である大奉行の真野源之助の協力のもと、水路橋の構造や開田数などの見積もりを藩に提出して資金を借り、また地元においても資金を用意した。




種山石工の技術が発揮された通潤橋(重要文化財)
通潤という名は中国の古典「易経の程氏伝」の一文に由来するという

 通潤用水の開削における最大の難所は五老ヶ滝川であった。高さ30メートルの峡谷を越える水路橋を築く必要があったのだが、独自のアーチ橋技術を有する種山(現在の東陽村)の石工集団をもってしてもそこまで高い橋を築くことは不可能であった。そこで水路橋を建設可能な高さに抑え、逆サイフォンの原理を用いて対岸の白糸台地に水を送る手法が考案された。水路橋の建設は嘉永5年(1852年)12月に始められ、1年8ヶ月後の嘉永7年(1853年)7月に竣工。高さ20.2メートル、アーチ径27.9メートル、長さ75.6メートル、幅6.3メートルの通潤橋が完成した。石橋の内部を通る3本の導水管は石の筒を繋ぎ合わせたもので、特殊配合の漆喰を隙間に塗って漏水を防いでいる。




通潤橋の南側に広がる白糸台地の棚田
石垣の棚田が多い九州にしては珍しく、土坡で築かれている

 通潤用水は阿蘇南外輪山に端を発する笹原川から取水しており、その取水口である笹原堰は白糸台地の約6キロメートル北東に位置している。起伏が多い土地ゆえ通潤橋のみならず導水抗と呼ばれるトンネルも数多く通されている。通潤用水の幹線水路は、台地上を通る「上井手(うわいで)」と台地下を通る「下井手(したいで)」の二本があり、それらから分岐する支線水路が万遍なく白糸台地を潤している。上井手から棚田に引き込まれた水は、棚田の縁に設けられた「落とし口」から下の棚田へと田越しに流れ、最終的には下井手に集約される水利システムだ。また水路の各所には「砂蓋(さぶた)」と呼ばれる余水吐が設けられており、増水時には排出できるようになっている。




通潤橋の工事に遅刻した者に拓かせたという「朝寝開き」の棚田

 布田保之助による通潤橋の工事、および棚田造成の様子が伝えられる地名として「朝寝開き」という棚田が存在する。わずか1年8ヶ月という短期間で竣工した通潤橋の架橋工事において、保之助は工事の出夫に対して厳しかったという。作業は日の出と共に開始されたのだが、朝早く遅刻する者も少なくなかった。その遅刻の罰として保之助は居残りを命じ、開発にあたらせたのが「朝寝開き」の棚田であると伝わっている。また通潤用水の開発後において、当初の計画を大幅に超える新田開発が行われたことで、慢性的な水不足に陥った。明治後期から昭和にかけて上流の井手集落と水利権争いが勃発し、それを収束させるために昭和31年(1956年)、取水口近くに円形分水が設けられた。




熊本藩の「領内名勝図巻」にも描かれている「五老ヶ滝」

 険しい峡谷が連なる山都町(矢部手永)には、数多くの滝が存在する。その中でも通潤橋の下流約200メートルに位置する「五老ヶ滝」は、落差約50メートルと規模が大きく、断崖絶壁に取り囲まれて雄大であり、山都町を代表する滝として知られている。江戸時代中期には熊本藩第8代藩主の細川斉茲(ほそかわなりしげ)が狩りで矢部手永を訪れ、その際にこれらの滝に感激し、御抱絵師の矢野良勝(やのよしかつ)に写生を命じた。その出来に満足した斉茲は、藩内の景勝地を探させては写生を行わせ、寛政5年(1793年)頃に「領内名勝図巻」としてまとめ上げた。この五老ヶ滝をはじめとする「領内名勝図巻」に描かれた景勝地は、「肥後御領内名勝地」として国の名勝に一括指定されている。

2014年09月訪問




【アクセス】

「熊本交通センター」より熊本バス「矢部行き」または「馬見原行き」で約1時間30分「通潤橋前バス停」下車すぐ。

【拝観情報】

散策自由(ただし、住民の迷惑にならないように)。

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