―五稜郭跡―
ごりょうかくあと
北海道函館市 特別史跡 1952年指定 五稜郭は、幕末に箱館港が開港されることになったのに際し、箱館の役所として造られた日本初の稜堡式城郭跡である。その正式名称は亀田役所土塁というものであったが、空から見るとまるで五芒星のように見えるその縄張りより、五稜郭という名で呼ばれるようになった。また、五稜郭は戊辰戦争における新政府軍と旧幕府軍との最後の戦い、いわゆる箱館戦争の激戦地としても知られている。 嘉永7(1854)年に締結された日米和親条約により、箱館港が開港されることになった。ところが箱館山の麓に箱館役所があったため、外国人に箱館山に登られてしまうとその様子が丸見えとなり、防衛上好ましくない。そこで幕府は箱館役所をより北部の亀田に移転させることを決定。安政4(1857)年より新しい箱館役所、すなわち五稜郭の造営が開始され、慶応2(1866)年に完成した。 しかし五稜郭完成後わずか二年で幕府は崩壊。明治時代が幕を開け、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が始まった。北方へと追いやられた旧幕府軍は函館へと到着。新政府により箱館府が置かれていた五稜郭を旧幕府軍の大鳥圭介、土方歳三らが占領する。その後旧幕府軍は松前藩を退け蝦夷地を平定、五稜郭にて箱館政権を立ち上げた。しかし程なくして新政府軍が蝦夷へと上陸、箱館総攻撃を受け、旧幕府軍は敗北する。 五稜郭の特徴は何と言ってもその形状であろう。これは稜堡式城郭といい、中世ヨーロッパで発達した西洋式の城郭である。伊予大洲藩出身の洋式軍学者、武田斐三郎により設計が行われ、これが日本で始めての稜堡式城郭となった。なお、日本の稜堡式城郭は、五稜郭の他にも龍岡藩の藩庁として造られた長野県の龍岡城があるが、こちらは完成前に明治維新を迎えたため未完成に終わった。 稜堡式城郭は火器の開発と共に発展してきた城塞形式である。稜堡式城郭の最大の特徴とも言える外側に向けて突出した三角形の堤は稜堡と言い、稜堡で城塞を囲むことで、銃撃における死角を無くしている。敵がどの場所にいても、死角無く正面および横からの銃撃、すなわち十字砲火を浴びせることが可能である。また防御に関しても、敵の銃撃によって弾け飛んだ石や煉瓦などで負傷しないよう、堤は土塁で築かれてる。 通常、稜堡式城郭では砲撃の目標となる背の高い建造物は排すのが普通であるが、五稜郭では奉行所に楼閣を乗せていた。それに加え、予算の都合より城塞本体の外側に設けられる半月堡が大手門のもの一つしか作られなかったりと、やや堅固さを欠いた造りとなっている。また、土塁は凍結に弱く北海道の気候に合わないため、五稜郭では石垣を積み、その上に土塁を重ねるという工夫がなされている。 2008年10月訪問
【アクセス】
JR函館本線「函館駅」より函館バス「五稜郭タワーシャトル」で約25分、「五稜郭タワー前バス停」下車、徒歩約3分。 JR函館本線「函館駅」より函館バスで約20分、「五稜郭公園入口バス停」下車、徒歩約10分。 函館市電「五稜郭公園前」より徒歩約20分。 【拝観情報】
拝観自由。 ・函館市元町末広町(重要伝統的建造物群保存地区) Tweet |