―山田寺跡―
やまだでらあと
奈良県桜井市 特別史跡 1952年指定 飛鳥時代、奈良盆地南部に位置する明日香村やその周辺一帯は、大王の宮や都が置かれていた場所であり、日本における政治と文化の中心地として繁栄していた。大陸より仏教が伝来したこの時代、朝廷やそれに仕える有力豪族たちは、それまで築いていた古墳に代わり、先祖の菩提を弔う為の氏寺を作るようになる。仏教を積極的に受け入れた蘇我馬子(そがのうまこ)は6世紀末に法興寺(飛鳥寺)を創建し、また馬子と共に仏教の興隆に務めた聖徳太子は推古15年(607年)に法隆寺を創建した。現在の明日香村と桜井市の境に位置する山田寺跡もまた、そのような飛鳥時代において蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだいしかわまろ)が創建した、氏寺の跡である。 仏教が日本に伝来すると、仏に奉じるべきという崇仏派の蘇我馬子と、強固な廃仏派であった物部守屋(もののべのもりや)が対立。馬子は後の聖徳太子である廐戸皇子(うまやどのおうじ)の協力を得て守屋を討ち、物部氏を滅ぼした。その後、蘇我氏は大臣として権力を掌握し、抑止力であった聖徳太子の亡き後は、まさに蘇我氏の独裁状態となる。特に馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)、その子である蘇我入鹿(そがのいるか)の時代は、朝廷をもないがしろにする専横を見せていたという。そんな蘇我氏に対し、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )と中臣鎌子(なかとみのかまこ)が皇極天皇4年(645年)に入鹿を暗殺。そして蝦夷を自害に追いやり、蘇我氏本宗家を滅亡させた。 山田寺を創建した蘇我倉山田石川麻呂は、入鹿の従兄弟でありながら蘇我氏本宗家とは敵対しており、入鹿暗殺においても中大兄皇子たちと協力関係にあった。石川麻呂が山田寺の造営を開始したのは、舒明天皇13年(641年)の事である。大化の改新後、石川麻呂は右大臣に登用されたものの、大化5年(649年)に謀反の疑いをかけられ兵を送られてしまい、その結果、石川麻呂は山田寺の金堂前で妻子と共に自害するに至った。その後、謀反の疑いは濡れ衣だったことが判明し、山田寺は朝廷の援助を受けながら建設が続けられていく。そして天武天皇14年(685年)に山田寺は完成。石川麻呂の36回目の命日に、天武天皇による本尊薬師如来像の開眼供養が行われたという。 その後も山田寺は健在であったが、平安時代の後期になると天台宗に属する多武峰寺(現在の談山神社)の末寺となり、平安の新仏教を敵視していた南都興福寺の襲撃を受けて荒廃してしまう。治承4年(1180年)に平重衡(たいらのしげひら)が興福寺を焼き払うと、興福寺の僧兵は山田寺の本尊に目を付け、文治3年(1187年)に山田寺へと押し入り薬師三尊像を強奪。それを興福寺東金堂の本尊に据えたという。その後、興福寺東金堂は応永18年(1411年)に落雷で再度焼失。山田寺から奪った本尊もまたその際に失われたと考えられていたが、昭和12年(1937年)に現東金堂の須弥壇内から山田寺の本尊が頭部のみの状態で発見され、白鳳仏の傑作として国宝に指定された。 山田寺は東西約118メートル、南北約185メートルの寺域に、南門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に建ち並ぶ、四天王寺式に近い伽藍配置であった。しかしながら、四天王寺の場合は中門から左右伸びた回廊が講堂の左右に取り付くのに対し、山田寺では回廊の外側に講堂が建つという点が異なっている。金堂の基壇は、東西約21.6メートル、南北約18.4メートル、高さは約2メートルで、周囲には板石の犬走りが巡らされていた。また金堂の正面には礼拝石が残されており、金堂と五重塔の間からは、石灯篭の台石が発見されている。金堂の建物は桁行三間、梁間二間。身舎(もや、建物本体の事)部分と庇部分の間数が同じという、特異な平面を持つ建築であった。 また山田寺跡からは、銅製の押出仏や塼仏(せんぶつ、粘土を型にはめて形成し、焼いた小仏像)、蓮弁の彫刻が施された礎石、単弁単子葉と呼ばれる紋様が施された山田寺式の瓦など、様々な遺物が出土している。昭和57年(1982年)の発掘調査では、土砂崩れによって倒壊、埋没した東回廊の建物が出土して話題となった。この発見より、山田寺の回廊は南北23間で約86.9メートル、基壇の幅は6.4メートルの規模であった事が判明し、またその連子窓や、柱の中程に膨らみを持たせたエンタシス、表面に白土を塗った壁などは、当時の建築技術を知る上で貴重な資料となった。これら古代の山田寺の様相を伝える数々の出土品は、一括して重要文化財に指定されている。 2006年05月訪問
2010年12月再訪問
【アクセス】
JR桜井線「桜井駅」より奈良交通バス「岡寺前行き」で約20分、「山田寺跡バス停」下車すぐ。 【拝観情報】
見学自由。 ・石舞台古墳(特別史跡) ・文殊院西古墳(特別史跡) Tweet |