―名護屋城跡並陣跡―
なごやじょうあとならびにじんあと
佐賀県東松浦郡鎮西町、呼子町、玄海町 特別史跡 1955年指定 佐賀県は玄界灘に突き出た東松浦半島の北西端、波戸岬の丘陵上に位置する名護屋城跡は、晩年の豊臣秀吉が朝鮮半島へと出兵した、いわゆる文禄の役、慶長の役の際に作られた陣城である。陣城とは言え対大陸の出兵基地として作られたその城は、石垣で築かれた非常に堅固かつ広大なものであり、当時は大坂城に次ぐほどの規模を誇っていたと言う。秀吉の死により慶長の役が終わると、名護屋城もまた役目を終えて棄却された。その後は建物の解体や石垣の破壊がなされたものの、その城跡は今もなお玄界灘を見下ろすその場所に残っており、名護屋城周辺に散らばる諸大名の陣跡と共に、国の特別史跡に指定されている。 関東の後北条氏を攻め落とし、天下統一を果たした秀吉は、次なる目標として明への侵攻を企てる。秀吉はまず波戸岬に名護屋城を築き、それを朝鮮半島へ渡る拠点とすることにした。普請奉行は後に熊本城や名古屋城を築き、築城の名手と称される加藤清正(かとうきよまさ)と、後に唐津藩の初代藩主となる寺沢広高(てらざわひろたか)が務め、その築城は黒田長政(くろだながまさ)や小西行長(こにしゆきなが)など、九州の大名を総動員した突貫工事によって進められ、着工からわずか5ヶ月で完成した。さらにその周囲には秀吉に従じる全国諸大名の陣屋も整えられ、小さな漁村は瞬く間に人口10万人超の一大軍事拠点へと変貌を遂げた。 名護屋城が建てられた勝男山には、元々この松浦地方で力を持っていた波多親(はたちかし)の家臣、名護屋経述(なごやつねのぶ)の居城である垣添城が存在していた。加藤清正らはこれを大々的に改修し、高石垣を築いて堅固な城に仕立て上げた。その縄張りは天守台のある本丸を中心として、その西側に二の丸が、東側に三の丸が配されており、それらを馬場が繋いでいる。三の丸からは東出丸が接続され、そこから大手口へと続く形となっている。本丸の天守台は波戸岬や玄界灘はもちろん、遠くには壱岐をも望むこともできるほどの眺望を持ち、かつてはここに五層七重の天守がそびえ立ち、大陸に睨みを利かせていた。 他にも名護屋城には、文禄2(1593)年に講和交渉の為に来日した、遊撃将軍こと明の沈惟敬(しんいけい/チェンウェイチン)が滞在した遊撃丸や、能舞台や茶室があり、能や茶の湯、歌会が催されていた山里丸など数多くの郭が並んでおり、かつての名護屋城が見る者を圧倒する大城郭であったことが見て取れる。ただしそんな名護屋城にも水不足という深刻な問題があり、城内には水手曲輪という雨水を溜める専用の郭もあったほどだ。井戸もいくつかの目にする事ができるが、中でも台所丸にある太閤井戸は秀吉が茶の湯にも用いていた井戸とされ、それは当時の名護屋の様子を写した肥前名護屋城図屏風にも描かれている。 慶長3(1598)年の8月18日、この日秀吉が死去すると共に慶長の役は終焉を告げた。朝鮮半島に渡っていた日本軍は続々と撤収し、名護屋城もまたその役目を終え、築城から7年という短さで廃城となった。結局、秀吉が名護屋城に滞在していたのは、わずか1年2ヶ月であった。その後の慶長7(1602)年、寺沢広高が唐津城を築城する際に名護屋城の建物は解体され、その木材は唐津城に再利用された。さらに島原の乱の後、城跡が反乱の拠点とならないよう、また明や朝鮮半島との関係を直したいという江戸幕府の意思表示として名護屋城跡の石垣を破壊、名護屋城は完全なる廃墟と化した。 名護屋城の周囲に散らばる大名陣屋跡は全部で100ヶ所以上あると言われているが、そのうち特別史跡に指定されているのは23ヶ所のみである。中でも名護屋城西側の丘にある堀秀治(ほりひではる)陣跡は特に規模が大きく、屋敷の礎石や土塁といった遺構も良く残っている。堀秀治陣跡の近くには豊臣秀保陣跡があり、こちらもまた建物や庭園の跡といった遺構が多数発見されている。これらの陣跡や、他にも徳川家康陣跡(とくがわいえやす)や前田利家(まえだとしいえ)陣跡など、いくつかの陣跡は発掘調査および整備がなされているが、森の中に埋もれたままの状態である陣跡も少なくない。 2009年10月訪問
【アクセス】
JR唐津線「唐津駅」から昭和バス「波戸岬行き」で約40分、「名護屋城博物館入口バス停」下車すぐ。 JR唐津線「唐津駅」から昭和バス「波戸岬行き」で約35分、「呼子バス停」下車、呼子から電動アシスト付きレンタサイクル使用(陣跡を回る際にはバッテリーの残存量に注意)。 【拝観情報】
見学自由。 ・熊本城跡(特別史跡) Tweet |