熊本城跡

―熊本城跡―
くまもとじょうあと
特別史跡 1955年指定

熊本県熊本市


 熊本市の中心部、茶臼山と呼ばれる標高50メートルほどの舌状台地に構えられた熊本城は、築城の名手として名高い加藤清正(かとうきよまさ)が居城として築いた平山城である。石垣の普請を特に得意としていた清正は、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる高石垣を築き、その上に巨大な天守や御殿、五階櫓を密集するように配すなど、非常に堅固かつ豪華な城となっている。明治時代には熊本鎮台が置かれ、その際に西出丸など一部の郭が棄却され、建造物もまた多くが失われた。しかしそれでもなお宇土櫓をはじめ多数の城郭建築が現存しており、石垣や堀なども良好に残されていることから、日本を代表する近世城郭のひとつとして特別史跡に指定された。




鉄筋コンクリート造で再建された連結式望楼型の天守
大天守は三重六階地下一階、小天守は三重四階地下一階だ

 熊本城の歴史は戦国時代初期の文明年間(1469年〜1487年)、肥後国の守護であった菊池氏の一族、出田秀信(いでだひろのぶ)が茶臼山の東端に千葉城を築いたことに始まる。その後、菊池氏の重臣であった鹿子木親員(かこぎちかかず)が茶臼山の南西に隈本城(くまもとじょう)を築き、大友氏が台頭して菊池氏の力が弱まると菊池氏の一族ではあるが大友氏と協力関係にあった城親冬(じょうちかふゆ)が入ることとなる。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐において、城氏は島津氏に仕えていたことから筑後国へと移され、代わりに佐々成政(ささなりまさ)が隈本城に入った。しかし成政は肥後国人一揆を起こしたことで切腹。その領地は加藤清正に与えられることとなった。




石積の技法や反りの勾配が異なる石垣が並ぶ「二様の石垣」
加藤清正が築いた乱積の石垣を、細川時代に増築された布積の石垣が覆う

 加藤清正は天正19年(1591年)に築城を開始し、慶長5年(1600年)頃には天守が完成している。慶長11年(1606年)に城の普請が完了し、翌年には「隈本」という名を「熊本」と改めた。清正の経験をもって築城された熊本城の縄張は、かつての千葉城や隈本城を包括する茶臼山全体におよび、高さ20メートルを超える石垣は上部にいくほど垂直に近くなる「武者返し」となっている。慶長16年(1611年)に清正が死去すると、三男の加藤忠広(かとうただひろ)が跡を継いだが、寛永9年(1632年)に改易となる。代わりに小倉藩主の細川忠利(ほそかわただとし)が熊本藩へと入り、忠利は荒れていた熊本城を修繕した。その後も細川氏により城の改築は続けられ、明治維新を迎えることとなる。




風の影響で焼失せずに済んだ宇土櫓
三重五階地下一階と、普通の城なら天守クラスの規模である

 明治10年(1877年)に西郷隆盛(さいごうたかもり)が旧薩摩藩の士族を率いて勃発した西南戦争においては、熊本鎮台が置かれていた熊本城は政府軍の拠点であると共に薩軍の攻略対象ともなった。薩軍は2月15日に鹿児島を出発して21日に熊本城を包囲したが、到着二日前の2月19日に熊本城内で火災が発生し、大天守や小天守をはじめ数多くの櫓が焼失している。出火の原因は不明であるが、巨大な天守は薩軍の攻撃目標となりやすいことから政府軍が自ら焼却したとの説がある。熊本城に籠城した政府軍は4000人、包囲する薩軍は14000人と戦力に差があったものの、高石垣をはじめ堅固な熊本城に攻め入ることができず、薩軍の攻撃は失敗に終わった。




東竹の丸では石垣の上に数多くの櫓が現存する

 熊本城の現存建造物は、平左衛門丸の北西隅にそびえる「宇土櫓」をはじめ、東竹の丸の南側に並ぶ「源之進櫓」「四間櫓」「十四間櫓」「七間櫓」「田子櫓」、同じく東竹の丸の北側に並ぶ「東十八間櫓」「北十八間櫓」「五間櫓」、その側に構えられた「不開門(あかずのもん)」、および不開門を監視する「平櫓」、新堀御門を監視する「監物櫓」、竹の丸の坪井川沿いに連なる「長塀」の計13棟があり、国の重要文化財に指定されている。このうち築城当初からのものは「宇土櫓」「源之進櫓」「東十八間櫓」「北十八間櫓」「五間櫓」「長塀」で、それ以外は幕末の建造だ。昭和35年には鉄筋コンクリート造で天守が再建され、また平成19年以降には本丸御殿をはじめ櫓や門が木造で再建されている。




本丸へと通じる「闇り通路」

 熊本城に現存する櫓の中でも「宇土櫓」は天守といっても遜色のない規模を誇る。明治初頭まではこのクラスの櫓が5棟現存し、熊本城に威厳と風格を与えていた。本丸への入口としては、大手に近い「頬当御門」をはじめ、四箇所に門が設けられている。そのうち唯一現存する「不開門」は北東の位置、すなわち鬼門にあたり、不浄の気が出入りする門と考えられていた。普段はその名の通り閉鎖され、死人や汚物の搬出の際にのみ開かれていたという。また本丸は通路によって南北に分断されており、その通路を跨ぐように本丸御殿が建てられていた。本丸へと至るには、本丸御殿の地下にあたる「闇り通路」と呼ばれる通路を通らなければならず、極めて特異な構造となっている。

2014年09月訪問




【アクセス】

「熊本交通センター」から徒歩約5分。
「熊本駅」から熊本市電幹線「B系統」で約10分「花畑町停留場」下車、徒歩約5分。または「熊本城・市役所前停留場」下車、徒歩約3分。

【拝観情報】

入園料は大人500円、小中学生200円。
開館時間は3月〜11月が8時30分〜18時00分(入園は17時30分まで)、12月〜2月は8時30分〜17時00分(入園は16時30分まで)。

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