金田城跡

―金田城跡―
かねだじょうあと

長崎県対馬市
特別史跡 1982年指定


 九州と朝鮮半島の中間地点、対馬海峡に浮かぶ国境の島、対馬。金田城(かねだじょう/かねだのき/かなたのき)跡は、その対馬の中央部分をえぐる浅海湾の南側、そこに突き出た半島の城山に存在している。晴れた日には韓国をも望むことができるその金田城は、飛鳥時代の663年に朝鮮半島で起きた白村江の戦いの後、唐と新羅の連合軍が日本に攻め込んで来ることを危惧した中大兄皇子(天智天皇)によって作られた古代山城のうちの一つである。そこには今もなお当時の石垣や門跡、建物の礎石といった貴重な遺構が数多く残されており、朝鮮半島からの防衛最前線に作られた軍事拠点としての機能を今に伝えている。




城山を巡る石垣の城壁

 白村江の戦いにおいて倭国軍が大敗したことを知った中大兄皇子は、まず始めに大宰府の防御機能を整えた。大宰府は九州を統べる役割のみならず、外国との交流の拠点としても機能しており、非常に重要な施設であった為だ。664年、福岡湾から大宰府に通じるその途上に水城という大土塁を築いて大宰府の城壁とし、またその翌年の665年には、百済からの亡命技術者の指導のもと(それ故、古代山城は朝鮮式山城とも呼ばれる)、大宰府の北に大野城を、南には基肄城を築いて徹底的に大宰府の守りを固め上げた。その後も各地の要所に古代山城は築かれ、対馬という西の最前線に金田城が作られたのは667年のことだ。




一ノ城戸の石垣
右下には水門の穴も見える

 浅海湾の周囲一帯は山地が沈降してできた日本有数のリアス式海岸であり、そこにある金田城の城山も、リアス式海岸特有の険しい地形となっている。特に山頂より西側は断崖絶壁となっていて人を一切寄せ付けず、まさに天然の要塞と言うべき様相を見せる。東側は比較的なだらかではあるが、城山の山頂からその東側一帯にかけて、総延長およそ2.9kmにもなる石垣の城壁が環状に巡らされており、城内への侵入を頑なに拒んでいる。今もなお尾根沿いを這い、斜面を滑るように伸びるその城壁を見るに、金田城が非常に堅固な城であったことは想像するに難くない。




現在修復作業が進む二ノ城戸

 城山には北部から東部にかけて、三本の谷が海へと走っているのだが、それらの谷間を塞ぐように、それぞれ城戸(きど)と呼ばれる城門が設けられている。そのうち最も北の一ノ城戸は、対馬藩主の宗氏も篤く信仰していた大吉戸神社のすぐ近くに存在する。高く積まれた石垣がダイナミックで目を引くが、上段部分は後世に修復されたものであり、良く見ると石垣の積み方が下段とは異なっているのが分かる。下段は自然石をそのまま積んだ野面積みだが、上段は切石を用いた布積みとなっているのだ。二ノ城戸は一ノ城から南へ少し行った所にあり、戸平成11年の調査ではここから門の礎石や敷石など、城門の遺構がほぼ原形のままに出土した。




ビングシ山に残る城門礎石と土塁

 三ノ城戸は三つの城戸の中で最も大きい谷間にあり、石垣の規模も極めて大きく、底部に穿たれた水門は今もなお機能している。ここにも城門の礎石が残っているのだが、それには扉の柱をはめ込む軸摺穴や、扉を回転させるために90度の角度で削った跡を確認することができる。また、二ノ城戸と三ノ城戸の間にはビングシ山という小さな丘があり、険しい地形の城山の中ではやや平坦な地区となっている。このビングシ山からは門跡や土塁、防人の住居跡と思わしき建物の跡などが発見されており、ここには金田城の中枢機能が存在していたのではないかと考えられている。




基山山頂付近に残る、日露戦争の軍事施設跡

 朝鮮半島に程近い対馬は、日露戦争の時にも重要な軍事拠点となった。明治38(1905)年には、対馬海峡で日露戦争の勝敗を決した日本海海戦も行われている。そんな最前線の対馬の中で、特に西側海域を見渡せる金田城は海峡の監視に適した場所であり、城山の山頂には砲台や倉庫などの軍事施設が置かれ要塞となった。同時に物資や人を運搬するための車両を通す道路も整備されており、その時いくらかの石垣が破壊されてしまっている。今でもそれらの軍事施設は遺跡として残っており、山頂へと通ずるその道路は、今ではハイキングコースとしてハイカーたちに利用されている。

2009年09月訪問




【アクセス】

公共交通なし。厳原フェリーターミナルから車で約30分。
登山口から山頂まで徒歩約40分、一周すると2〜3時間(一部道が分かりづらく、遭難注意)。

【拝観情報】

拝観自由。

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