基肄(椽)城跡

―基肄(椽)城跡―
きいじょうあと

福岡県筑紫野市、佐賀県三養基郡基山町
特別史跡 1954年指定


 飛鳥時代、九州を統治する拠点として、また大陸への玄関口として、大和朝廷が九州に設置した行政機関、大宰府。その政庁から10kmほど南へ下ったところに基山と呼ばれる山がある。平地からすくっと立ち上がり、大宰府や筑後平野を眼下に納めることができるその基山に、大宰府を守るために作られた古代山城の一つ、基肄城が存在していた。今でも山中には環状に巡らされた土塁が残り、その内側には倉庫など建物の礎石が散在している。基肄城跡は極めて巨大な規模を持ち、かつ最も始めの時期に作られた古代山城として貴重な遺構であり、特別史跡に指定されている。




基山山頂付近にある中世の遺構「いものがんき」

 660年、朝鮮半島の新羅は唐の援助を得て隣国の百済を滅ぼした。国を再興しようとした百済の遺臣たちは、友好関係にあった倭国に助けを求め、大和朝廷は百済を救うことを決定。倭国軍は661年に朝鮮半島へと上陸した。ところが663年、倭国軍は白村江(はくすきのえ)に駐屯していた唐と新羅の連合軍に対して海戦、陸戦ともに大敗を喫してしまう。いわゆる白村江の戦いである。倭国軍は各地に残る百済の民を船に乗せて帰還したものの、その結果に衝撃を受けた中大兄皇子(天智天皇)は、唐と新羅が日本に攻め込んでくることを恐れて日本各所に古代山城を築城し、九州沿岸部には防人を置いた。




基肄城に設けられた4ヶ所の城門跡の一つ、東北門跡

 基肄城もまた、その時に作られた古代山城の一つである。築城は大野城と同じ665年。その目的も大野城と同じく大宰府を守るためであり、百済から亡命してきた憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)の指示のもと、建設が行われたのも同様である。城は標高404mの基山、および標高414メートルの北帝を中心に、その山頂から東側中腹にかけて、総延長約4300mにもなる土塁を環状に巡らし、その内部に倉庫を配する構造となっている。これはこの時代に朝鮮半島で作られていた山城の形式であり、それゆえこの時期に作られた基肄城などの古代山城は、朝鮮式山城とも呼ばれている。




倉庫と推測される建物の礎石が残る、大礎石群

 博多湾から大宰府へ入る道を遮断する水城、大宰府の北側を守る大野城、そして大宰府の南側、筑紫平野から大宰府に入る交通の要衝を守る基肄城の整備により、大宰府守備の布陣が完成した。以降、基肄城には基肄軍団と呼ばれる兵士が500人以上詰めていたとされるが、結果的に唐、新羅の連合軍が日本に攻め入ってくる事は無く、平安時代の初期には他の防人と同様に解散している。その後、基肄城は森の中に埋もれ歴史から姿を消したものの、基肄城のあった基山には、現在も土塁や門跡、礎石をはじめとした城郭遺構が各所に残っており、その巨大な古代山城の姿を今に伝えている。




南門跡の石垣および水門

 これまで確認されている基肄城の建物遺構は、大礎石群、丸尾礎石群、米倉礎石群などに残る倉庫跡が34ヶ所、鐘撞き(かねつき)堂跡が1ヶ所、そして土塁に設けられた門跡が北帝門、東北門、東南門、南門の4ヶ所である。このうち南門は山中を流れる沢が作りだした谷にあるのだが、そこには高さ8.5m、長さ26mもの巨大な石垣が築かれている。なお、沢の水は石垣に穿たれた水門により排出されているのだが、この水門をくぐって城内に入った者は、一年の徒刑に処されることになっていたという。他にも、建物跡ではないが、つつみ跡と言われる溜池の遺構も城内には残されている。




基山山頂に位置する天智天皇欽仰之碑と、霊霊石
かつてここにあった荒穂神社は、基山の麓に移転して存続している

 また、基山の山頂付近には、稜線の狭い箇所を分断した「いものがんき」を見ることができる。これは切られた稜線の隆起の具合が芋畑の畝に似ていることからその名の付いた堀切遺構であるが、しかしこれは基肄城築城時に作られたものではなく、中世に作られたものであるという。また、基山山頂には昭和7年に基山小学校の生徒によって立てられた天智天皇欽仰之碑と、霊霊石(たまたまいし)と呼ばれる巨石が鎮座している。この霊霊石は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子である五十猛(いそたける)が腰を下ろした岩であるとされ、かつてはこの場所に霊霊石を祀る荒穂神社があった。

2009年09月訪問




【アクセス】

JR鹿児島本線「基山駅」または「けやき台駅」から徒歩約2〜3時間。

【拝観情報】

拝観自由。

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