―西都原古墳群―
さいとばるこふんぐん
特別史跡 1952年指定 宮崎県西都市 宮崎県の中央部、西都市の市街地西側に広がる洪積台地には、九州最大規模の古墳である男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)が存在する。それらを取り巻くように、東西2.6キロメートル、南北4.2キロメートルの範囲に渡って311基もの古墳が密集しており、日本最大級の古墳群を形成している。南から北へ第一古墳群、第二古墳群、第三古墳群と分布する西都原古墳群は、4世紀から7世紀と長期に渡って造成され続けてきた。前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓11基、横穴墓12基と様々な種類の古墳から成り、日本を代表する大規模古墳群といえる。また大正元年(1912年)から日本で初めて本格的な学術調査が行われた遺跡としても著名である。 日本神話によると、高千穂に降臨した瓊々杵尊(ニニギノミコト)は、より豊かな土地を求めて西都原の地に移り住んだという。そして在地の神である大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘、木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)と結婚した。5世紀前半に築かれた男狭穂塚と女狭穂塚は、それぞれ瓊々杵尊、木花咲耶姫の陵墓とされている。全長約175メートルの男狭穂塚は、前方後円墳の一種である帆立貝形古墳として日本最大のものだ。また全長約180メートルの女狭穂塚は、九州最大の前方後円墳である。いずれにせよ、西都原の地には巨大な古代国家が存在したことは確かであり、その後の奈良時代には国府、国分寺、および国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えていた。 女狭穂塚の南西には、陪塚(ばいちょう)として築かれた171号墳が隣接する。西都原古墳群で唯一の方墳であり、一辺約25メートル、高さ約4.5メートルの規模で、二段に築成されている。墳丘は葺石によって覆われ、一段目と二段目のテラスには円筒埴輪が並べられ、墳頂には家形埴輪や盾型埴輪が置かれていた。また男狭穂塚の西側には、「飯盛塚」と称される169号墳、「雑掌塚」と称される170号墳が存在する。これらもまた陪塚として築かれたと考えられる円墳であり、大正時代の発掘調査で170号墳から出土した「子持家形埴輪」は、主屋の四面に小型の附属屋を付けた特異な造形であり、同じく170号墳から出土した「船形埴輪」と共に国の重要文化財に指定されている。 西都原では早い時期より古墳の造営が行われていた。284号墳からは弥生時代末期の壺や高坏、器台などが出土しており、その頃まで遡る可能性が高いという。また前方後円墳では、前方部分が低くて細長い「柄鏡形類型」のものが多い。これは前方後円墳の形が定型化する前の古墳時代前期に築かれたとされ、南九州でよく見られる形式である。4世紀後半に築かれた13号墳は、全長79.4メートルの前方後円墳である。埋葬施設は粘土と石で木棺を覆った粘土槨であり、国産の三角縁神獣鏡が出土している。一般的な古墳は土を突き固める版築の技法で築かれるのに対し、この古墳では黄褐色と黒色の土のブロックを積み上げ、その間に柔らかい土を詰めて上から締め固めている。 第三古墳群の111号墳は、南九州特有の「地下式横穴墓」を持つ円墳である。地下式横穴墓とは、墳丘の周溝に垂直の竪抗を掘り、墳丘の中心部に向かって玄室を掘り抜く埋葬形式のことで、111号墳のものは5世紀後半の築造だ。玄室の長さは5.5メートル、幅2.2メートルと地下式横穴墓としては最大規模であり、副葬品として鉄製の短甲、直刀、珠文鏡などが出土している。屋根型の天井と壁には朱が塗られ、床の中央には幅0.45メートル、長さ3.5メートルの窪みに白色の粘土を貼り、遺体を安置する屍床としていた。発見当初、111号墳の埋葬施設は地下式横穴墓のみと考えられていたが、平成14年の墳丘調査により墳頂部から6世紀初頭以降の埋葬施設が3基発見されている。 古墳群の中心に独立して築かれている「鬼の窟古墳」は、6世紀末から7世紀前半に築かれたもので、西都原における最後の首長墓と考えられている。直径37メートル、高さ7.3メートルの円墳であり、西都原古墳群では唯一の開口した横穴式石室を備えている。古墳の周囲には土塁による外堤が巡らされているが、このような例は朝鮮半島など大陸では多く見られるものの、日本では石舞台古墳などわずかしかなく、特に円墳では鬼の窟古墳が唯一である。また鬼の窟古墳の南には、同時期の7世紀前半に造営された「坂元ノ横穴墓群」が存在する。「横穴墓」と「地下式横穴墓」を組み合わせた珍しい形式であり、10つの墓道に6基の玄室が出土している。 2014年09月訪問
【アクセス】
「西都バスセンター」から徒歩約30分。 【拝観情報】
見学自由。 ・埼玉古墳群(特別史跡) ・巣山古墳(特別史跡) ・岩橋千塚古墳群(特別史跡) Tweet |