松本城天守

―松本城天守―
まつもとじょうてんしゅ

長野県松本市
国宝 1952年指定


 長野県中央部の松本盆地。北アルプスを遠景に、漆黒の下見板張が映える天守群が聳え立つ。その姿より、烏城(からすじょう)とも呼ばれる松本城の天守は、五重六階の大天守を中心として、その北側に渡櫓と乾小天守、東側には辰巳附櫓と月見櫓が連結された、連結複合式の天守である。それは近代に入る前に建てられた、いわゆる現存天守のうちの一つであり、また全国に12ある現存天守の中でも一際優れたものとして、国宝指定を受けた四天守のうちの一つでもある。特に松本城天守は、現存天守を持つ城郭の中では唯一の平城(平地に建設された城郭)であり、また実戦的で無骨な造りながらも優雅さを兼ね備えた名天守として、日本を代表する城郭建築の一つとされている。




内掘の対岸から松本城天守を望む
壮大な五重の天守は、松本城と姫路城の二城しか現存せず、貴重である

 松本城は、信濃中部で力を誇っていた小笠原氏の小笠原貞朝(おがさわらさだとも)が、永正元年(1504年)に築いた深志城(ふかしじょう)を前身とする。しかし、深志城は天文19年(1550年)、甲斐の虎こと武田信玄によって攻め込まれてあえなく陥落。松本の地は武田氏の領土となり、小笠原氏は没落してしまう。その後の天正3年(1575年)、織田信長と徳川家康の連合軍によって武田氏が滅亡すると、徳川家康の家臣となっていた貞朝の嫡男である小笠原貞慶(おがさわらさだよし)は松本に再び返り咲き、深志城の城主となった。深志城が松本城という名に改められたのは、その時の事である。なお、この当時の松本城は、丸馬出を備えた武田式の中世城郭であった。




本丸御殿跡側から見る松本城天守
大天守の右には渡櫓を経由して乾小天守が、左には辰巳附櫓と月見櫓が付属する

 天正18年(1590年)に豊臣秀吉が天下を統一すると、家康は秀吉に関東への移封を命じられる。それに伴い、家康の家臣であった貞慶もまた、下総国の古河へと移された。代わりに松本城へ入ったのが、徳川家から出奔して秀吉の家臣となった、石川数正(いしかわかずまさ)である。数正は長男の石川康長(いしかわやすなが)と共に、二代に渡って松本城と城下町の整備を行い、そうして松本城は今に見られるような近世城郭になった。ただしこの当時の天守は、大天守と乾少天守を渡櫓で繋いだだけの連結式望楼型天守であり、辰巳附櫓と月見櫓については、江戸時代の寛永10年(1633年)、越前大野から入封してきた松平直政(まつだいらなおまさ)によって増築されたものである。




大天守一階の武者走り

 松本城の縄張りは、天守台のある本丸を中心に、その三方に内堀を巡らして二の丸で取り囲み、さらにそれらの四方に外堀を巡らして三の丸で取り囲むという、梯郭式と輪郭式を組み合わせた様式の城郭となっている。現在、堀は内堀と外堀の半分、それと総堀のごく一部が残されており、郭は本丸と二の丸部分のみが現存し、公園として整備されている。松本城が築城された土地は、女鳥羽川(めとばがわ)に隣接する低湿地で、水はけが非常に悪い。それ故、松本城の天守台には、16本もの支持柱が打ち込まれて、さらにイカダ状に組んだ丸太を埋めて地盤を強化している。また石垣の高さも、通常より低く抑えて軽量化を図るなど、軟弱な地盤に対する様々な工夫を見る事ができる。




四方に破風入込間(はふいりこみま)が設けられている大天守五階

 松本城の大天守は、元は望楼型(ぼうろうがた;大きな入母屋の上に小さい望楼を乗せた形式)の天守であったが、松平氏が月見櫓を増築した際に改装され、層塔型(そうとうがた;下層から上層まで形が統一された形式)に改められた。それ故、外観こそ層塔型であるが、内部の構造は望楼型のままである。無骨な大天守と乾小天守は、まさに「戦う為の城」といった様相を呈している。外壁は、柱を漆喰で塗り込めて耐火性を増した大壁(おおかべ)で、黒い下見板を張っている。また天守の初層には、石垣を登ってくる敵に対して石や熱湯を浴びせかける石落としが備わっている。特に大天守の石落としは、建物の角のみならず、中間部分にも設けられており、より防御性が高められている。




左手前に見える高欄の付いた開放感ある部分が月見櫓である
実戦的な大天守に、泰安の世の優雅な櫓が融合した、独特な天守となっている

 天守の外壁は大壁なのに対し、内側の壁は柱の見える真壁(しんかべ)である。外を見張り、有事には弓や鉄砲で攻撃するための小窓である、狭間(さま)も数多く設けられている。また大天守一階は、窓際に沿って「武者走り」と呼ばれる一段低い廊下が巡らされているが、これは射手が走って行動しやすいようにする為である。万が一、天守内に攻め込まれた時の事も考えられており、階段の位置は飛び飛びで、その勾配も急である。一方、世の中が泰安となった後に建て増しされた辰巳附櫓と月見櫓には、軍事施設としての設備は備わっていない。特に、松平直政が徳川家光を迎える為に作ったとされる月見櫓は、その三方向に舞良戸と欄干を設けるなど、優雅な書院造風の風情を見せる。

2007年04月訪問
2011年04月再訪問




【アクセス】

JR篠ノ井線「松本駅」から徒歩約20分。

【拝観情報】

拝観料金600円。
拝観時間8時30分〜17時(入場は16時30分まで)、12月29日〜1月3日休館。

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